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お知らせ


下記に引越しました。
もし気が向かれましたら、引き続きご愛顧のほど宜しくお願いいたします。

http://randomwalk-blog.blogspot.com/





2009⁄09⁄06(Sun) 15:38   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
食べ合わせ?


坂本龍一がテレビで「食べ合わせといえば、中華食べてたら
ボサノヴァが流れてきて、、」と言っていた。
想像するだけでも、胃のあたり、むず痒い気がする。

ちょうどその番組を見る前、例によってジョギングをしていた。

音楽を聞いていると気がまぎれるせいか、
何も聞いていないより長く走れるように思う。

昨日はカプースチンで40分走れたから、今日は、、、と、迷ったあげく
ライヒの「Drumming」にした。

村上さんはたしか、走るときはロックだと書いていたっけ。
足取りが軽くなりそうな、リズム主導の曲がいいかな、という
単純な発想だった。

ただ、この曲は、確かに打楽器しか使われていないので(ときどき人の声とかも入るけど)、
リズム、といえばリズムそのものなんだが、
そのリズムがころころ変わるのが眼目、みたいな曲だったのを
すっかり忘れていた。

ジッパーのついたリストバンドの中にipodを入れているから、
いったん選曲して走り出してしまうと、取り出して選びなおすのも手間だし、と、
そのまま走り続けてしまったけれど、
どうも、走っている間、胃のあたり、異物感が。

耳からの刺激なのに、胃にくるのが、おもしろい。
2時間は経ってたけど、食後といえば食後だったからかな。





2009⁄09⁄03(Thu) 20:38   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
走ること、人のこと猫のこと


唇のできものは口唇ヘルペスというそうで、日曜の朝には下くちびるが「ぼわーん」と腫れ上がっていた。日曜にも診療している近場の診療所をネットで探して行ってみる。口調と発音が中国人風の医師が『今日の治療薬』と「口唇ヘルペス」と書かれたパンフレットを開いて見せながら、まあ、疲労でしょうかねえ、塗り薬もあるけど、ひどくなると心配だから、と言う。抗ウイルス薬を処方される。
人種差別なんて、と心底思っているはずだったけれども、正直、初診で診察室に入ってみて突然チャイニーズな日本語で話しかけられると、つい心配になってしまう自分がなさけない。免許はお持ちかしらと見回してみたりする。日本人にもありそうな名前だけれど、漢方も処方します、と貼り紙がしてある。日曜診療しているあたり、経営に苦労しているんだろうか。

というわけで、問題のヘルペスは漸く「かさぶた」の段階に入ったが、さすがにプールには入れそうにない。「泳ぐ。泳げない日は走る。(走れない日は歩く)」を身上としているので、今日は走ることにした。
のろのろと走っているけれど、それでも40分続けて走ったんだから、まあ、いいことにする。
私よりずっと速いペースで走っている人とすれ違う。歩いている人を眺めつつ、ゆるゆると追い越す。みな自然と、平坦な道、道幅の広い道に集まってくるんだろう。
ベルリンで入賞したゴール直前の佐藤選手を思い出す。佐藤選手は後半ひとりで走っていて、解説の瀬古さんが「早く前の選手の背中が見えてほしいですねえ」「抜いたら入賞もありますからねえ」「前の選手が見えると変わりますからねえ」としきりと言っていて、そんなものかしらん、と思っていた。
ゴール直前の直線になって、前方に選手の背中が見えて、佐藤選手の走りは、ほんとうに、まるっきり変わった。ギアチェンジでもしたみたいに、見る見るスピードを上げて前の選手を抜き去ってゴール。アナウンサーは「これが駅伝魂」と言っていたけれど、「背中が見えると、もう、抜きたくて抜きたくてしかたなくなる」のだそうだ。倒れそうな選手もいる中、彼はゴール後も嬉々と日の丸を背負って笑っていて、メンタルの変化ってここまでフィジカルに影響するのか、と思ったのも本当だけれど、その気持ちのきっかけとしての他者の存在もまた重要なんだなと。
ふたたび村上春樹の『走ることについて…』だけれど、あとがきに、この本を、道で抜いたり抜かれたりしたランナーに捧げる、彼らがいなかったらこの本はできなかった、というようなことが書いてあって、ランナーを遠くに眺めながら、きっと、ほんとうにそうなんだろうな、とおもったのだった。
猫にも会う。走っている間に4匹、マンションの入口で親子と見える2匹。マンションのエレベータの中に次々と人間が消えていくのが不思議なのか、親子して少し首を傾けて、玄関ホールの出入口から見送ってくれた。軽く手を振って、おやすみを言う。





2009⁄09⁄01(Tue) 22:22   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
ホーム


深夜便で帰国。
ふたたび残暑がぶり返した日本ですが、どうぞお気をつけて、と機外へ送り出されてみると、
言葉どおりマレーシアと変わらない気候が待ちうけていた。
その足で病院へ。インフルではなくて持病の薬をもらう。
帰宅して洗濯を終え、やっとひとごこち。

お客さんと一緒に工場の査察に行くというのが今回の(というか、いつもの)目的だが、
途上で、お客さんが「シンガポールもインドネシアもだけど、マレーシアも、なんか知らないけど民家に国旗がかかってることが多いなあ」とのたまう。
ラマダン明けであること以外に特段記念日的祝祭の要素はなさそうなので、ご指摘のとおり「平日なのに民家に国旗がかかっている」のかもしれない。お客さんはそれを「愛国心があって良いね」(日本人にはないけど)と受け止めていた。
まず国旗を掲げることが愛国心を表すのかどうか、というところはさておき、日常的に何かを民家のベランダのようなところからたらりと掛けているという行為がその対象物への愛をあらわしているかというと、ちょっとそれも疑問である。道に面して外から丸見えのベランダを隠すのに国旗がちょうどよく無難なサイズとデザインだったというようなことだって考えられる。星と月と縞模様だから、それなりに建築物にも溶け込むし。
日本の国旗はどうだろう。あの白米に梅干を置いたような奇抜なデザインが道路沿いの民家のベランダに年じゅう掛かっていたら。まず馴染まないしねえ。というような、しごくどうでもいいことを後付けで考えた。

今回の唯一の楽しみはホテルのプールで泳ぐことと、泳げなければホテル周辺をジョギングをすることだったので、水着とシューズを持っていった。プールはクアラルンプールとマラッカのホテルでそれぞれ試した。KLでは、思いがけなく50×約20メートル、片方の水深2メートルという巨大プールを1時間独占して泳ぐという僥倖を得た。日本の屋内プールのような監視員はもちろんいない。最初は喜んでいたのだが、これだけ大きなプール、特に水深2メートルのあたりを一人で泳ぐというのは、意外にコワイ経験だった。片道50メートルの辺を往復しようとすると、25メートルを経過したあたりから水深2メートルになる。深い部分にいると、慣れないせいか、足が下へ下へと引っ張られるように感じる。排水溝も大きい。そこから想像が膨らむと既にホラーである。そういうのには弱い。水深1メートルの浅瀬に逃げて、一辺が20メートルの側を往復することにする。
水に塩素臭が殆どないことに気づく。途中から小雨が降り出してきてはじめて、雨水がこのプールの水の何割かを占めているのかしらと遅まきながら気づく。考えてみると、毎日のように雨の降る街の、あまり人の来ない屋外プールの衛生状態って、と思いはじめたのは40分ほど経過した後だった。しかしこんなオリンピック級のだだっ広いプールを独り占めできる機会なんて、人生でこれで最後だろうと思ったから、えい、ままよと雨が降り出しても泳いだ。水の中のほうがあたたかい。
雨はしばらくして上がった。黒の羽毛にくちばしだけオレンジ色をした小ぶりの鳥がプールサイドに来て水浴びをはじめた。白い水泳帽が上下しつつ動いているのにも鳥は驚く様子もなく、せわしく身体を清めている。やはりこの衛生状態は、、などと思いが交錯しつつ、横目で鳥を追いながら、平泳ぎを続けた。

そんなこんなで、いちおう帰国。いまのところ熱はないが唇にできものがある。
日本にいるときは、「好きだ」とはとりたてて思わないし、スイートというよりはビターだと言いたいけれども、やはりこの国に生まれてよかったし、東京のはずれのこの街がホームだとおもう。





2009⁄08⁄29(Sat) 17:19   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
90分


生まれてはじめて90分間連続して泳いだ(平泳ぎ)。
いつも40分くらいしか泳いでいないから、約2倍。

プールに行く前にこれを見たのが良かったかな。
平泳ぎのキックが3stepで解説されてます。(2分55秒くらいから)
キックのイメージが掴めて、ちゃんと前に進むようになりました。(笑)
今日も村上春樹を聞いていた。





2009⁄08⁄21(Fri) 22:31   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
泳いだり、走ったり


英語の朗読CDだったから手にとって聴いたのだろう、英語から入ったから日本語を読んでみたくなったのだろう、水泳とジョギングをぼちぼちと始めた今だから、なにがしか、感じるところがあったのだろう、と、思うのが村上春樹『走ることについて語るときに僕の語ること』。
英語を聞いていて、いや、いくらなんでも、村上氏の文章にはもっと味があったはず、と思って、本屋で原文を立読みした。まあ、そもそも、英語の味わいなんてものが分かるほど熟練していないだけだったりもするけれども。

慣れない頃の過呼吸というのは分かる。
わたしの場合は村上さんと違って、泳ぐほうが多いのだけれども、最初のころは50メートルほど泳ぐと苦しくなって休んでいた。後から分かったことだが、つまり息を吸いすぎなのである。
1ヶ月半ほど続けたあたりから、呼吸が楽になりはじめた。というか、一度に吸う空気量が少なくなった。まだまだ向上の余地はあるけれど、今は40分泳いでも若干足に筋肉疲労を感じるだけで、呼吸は殆ど乱れない。
泳ぐのに少し遅れてジョギングを始めた。プールで40分泳ごうと思うと、往復、衣服の着脱を含め最低1時間半はかかる。夜に1時間半とるのは、なかなか難しいこともある。ジョギングなら、家を出たところから始められるから、賞味の走る時間だけでよい。泳げない日は走ることにした。5分走っては2分歩き、というような、性格に見合ったのんびりジョギング&ウォーキングで、しかも1日走っては2日休み、といった具合だった。
ところがそんな継続でもなんとやらで、昨日あたり、30分走っても「まだ行けそう」なかんじになってきた。ぼちぼちも意外と侮れない。これも呼吸が改善されたことによるところが多いんじゃないかと自己評価している。

泳いでいるときは特に、体のパーツの動きを感じとることに集中している。
左腕が痛みだしてからは、昔ハンズで買って押入れに入れたままにしていた筋肉系の図を壁にかけて眺めることが多くなった。(ちなみにその左隣には脳の図がかかっているのだが)
自分の身体でいろいろと実験したくなる気持ちって分かる気がする。
なにも新薬を試すとか、電流を流してみるとか、そういう特殊なことではなく、ごくごく日常の中で、どう動けばどこの筋肉が刺激されるのか、とか、血糖値が1日でどう変動するか、体脂肪率とか筋肉はどんな具合で増減するかという、やたら地味なことに興味が向いている今日このごろ。

ヨガをしながら、ときどき1Q84の青豆さんが懐かしくなる。(彼女はヨガじゃなくてマーシャルアーツだったっけ。)あれは、ストイックな村上さんならではのキャラクターだなあと『走ることについて語るときに…』を読了(ならぬ聴了)した今にして思う。







2009⁄08⁄20(Thu) 23:32   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
バナナ依存症


おかずを自炊する場合、炭水化物はレーズンロールパン1個とバナナから摂取している。
おにぎり1個に代える場合もあるが、そう多くはない。
パンをやめてバナナだけだったり、加えてかぼちゃを食べることもあるが、バナナだけは固定している。
ということは、自炊が続く休日は、いきおい毎食バナナを食べることになる。
好きなんだから良いのである。
ところが、このところ、たまにバナナが店頭に見当たらないことがある。
ふだん残り1-2本になった時点で補充に行くから、まあ今日なくても明日がある、と悠長に構えていられたのだが、今日は違う。昼食前の残り1本の時点でいつものスーパーに行くも品切れ。
仕方なく再度夕方行ってみるのだが、まだない。いや正確に言うと、いつも買う安いのがない。
バナナにも何種類かあって、甘熟王という、安いのの2倍ほどするバナナが2房だけ残っていた。

たまにはバナナをやめてキウイにするかとキウイを買って店を出る。
ところが店を出て少々歩いたあたりで「後ろ髪を引かれる」ような気になって、「高くても買おう」と一大決意をしてバナナの棚まで戻った。
ところが。
ない。
数分のあいだに売れてしまったのである。
失って分かる有難味というが、食べられないと思うと妙にさみしい。
あまりにさみしくて、2軒目のスーパーに行ってみる。
見事にバナナのラックが空っぽ。
どうしてだろう。
いちどきに2軒のスーパーで品切れなのは初めて。
先ごろタマネギがスーパーから一気に姿を消したと思ったら翌日から価格が急騰したことがあった。品薄だという。
バナナもだろうか。
そんなことを考えながら、いままで一度も入ったことのない生協をのぞいてみると。
あった!
棚を埋めるバナナ、バナナ、バナナの山。
ありがとう生協さん。
思わず知らず笑みがこぼれる。
一気に改善した精神状態を自覚した途端、はたと思う。
ひと房で百何円のたかがバナナを獲得して、ここまで嬉しいっていうのは、ちょっと…。
そういえばバナナには安眠効果、精神安定作用があるとかないとか。
あの後ろ髪を引かれる思いは、いわゆる禁断症状のようなものだったのか、と思いつつ、
小ぶりのをパクリと食す。
ま、いっか。
だって美味しいんだもん。

追記:バナナに含まれるというトリプトファンとは脳内でセロトニンやメラトニンを作るアミノ酸である。(よく知らないがセロトニンとうつ病とは関係があるらしい。トリプトファンは睡眠障害を改善するとしてサプリメントも出回っているそうだ。)どうも聞き覚えがあると思ったら、このまえ読んだ福岡伸一著『動的平衡』に出てきた話だった。
ちなみに福岡氏はサプリメントとしてトリプトファンを摂取することについて懐疑的である。日本人がふつうに食事をしていてトリプトファンが不足することはありえないし、トリプトファンによって睡眠障害が軽減されるかどうかも科学的に疑問視されているとのことである。体調不良を「何か栄養素が不足しているから」と考えるのは現代人の悪い癖であるようだが、「睡眠のような複雑な仕組みが、トリプトファンの供給量を増やせば、それで改善されるといった単純なメカニズムであるはずがない。(福岡伸一著『動的平衡』より引用)」とのこと。詳しくは同著を参照されたし。





2009⁄08⁄16(Sun) 22:11   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
ひよ


積ん読状態で気がかりだった本を淡々と消化しつづけるお盆休み4日目(というか、もう土曜)。宮本常一『塩の道』を読んでいて笑ったのが「牛は道草を食ってくれる」。塩がどういう方法・ルートで輸送されたかという話なのだが、東北あたりから運ぶのには馬より牛が輸送手段として好まれたそうだ。牛は細道を歩く力があるし、野宿につきあってくれる(どこでもごろりと寝てくれる)し、道草を食ってくれるからだそうなのだ。
道草の第一義はWEBの大辞林によれば「目的地に行く途中で他のことに時間を使うこと」である。この文脈では当然第一義は適用されない。
第二義は「道端に生えている草」であり、「〜を食う」と使う由来は「馬が道々草を食いながら行くこと」から来ているとある。
ほら、馬だって道草を食うはずだ。と思ったわけだけれども、読み進めるとちゃんと書いてあった。馬は江戸時代頃からすでに遠路向けの輸送手段としてトレーニングされていて、口籠なるものをかぶせられて無闇に周囲のものを食べないようになっていたらしい。そこへ行くと牛はそんなトレーニングを受けていないから道草を食べてくれて餌代が節約できる、と。なるほど。

小林秀雄の講演CDの中に柳田國男「故郷七十年」の中の「おばあさんのほこらの話」(正式名称未確認)に言及していた箇所があって、原文を読もうと探したが、そのとき書店に在庫がなかった。仕方なく、遠野物語が入っているちくま日本文学の1巻ものの文庫本を買ったのだが、これまた長いこと放置していた。ぱらぱらとめくっていると、「清光館哀史」のあたりから惹き込まれた。
小林秀雄は故郷七十年の冒頭の語り口を引いて、「ばかばかしいことならたくさんあります」、と柳田さんは始めるんですよ、と言っていた。死んだおばあさんの魂(たま)も、生活の苦労も、ばかばかしいことですよ、でもそのどちらにも同じリアリティがあるんですよ、そういう健全な思想を柳田さんは持っていた、そして「ひよ」が鳴かなかったら発狂していただろうというほどの感受性が、というようなことを、あの甲高い声で熱っぽく語っていて、いつもそこはずんとくるのだけれども、今日はそれが特に響いてきた。

内田樹先生であったか、人間と他の霊長類をわかつものは墓を作ることであり、死者のメッセージを聴くという点で人間はサルから分岐した、人間の人間らしき性質はそこから派生しているという話と小林・柳田の話とが繋がった。ふと、実家のスタンドピアノの上に置かれていた祖母の写真が想い浮かぶ。





2009⁄08⁄16(Sun) 00:14   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
お盆休み3日目


親に元気そうな顔を見せるのは子たるものの義務である。
とはいえ長居するとろくなことはないから、チラリと顔見せする程度が相互にとって後味もよろしく平和友好的だ。
というわけで、近所のモスバーガーでコーヒーを飲みながら長らく積読となっていたライアル・ワトソンの『エレファントム』を読み終え、昼食ぴったりの時間に実家に到着。2ヶ月ぶりほどではあったが、食べ終えると父は約束でいそいそと遊びに出かけ、母は急逝した友人の通夜に出かける準備をはじめた。老後といえども何かと忙しい。
山梨学院と県立岐阜の対戦を見ながら、母と話すともなく話す。
「どうしてるかしらっていつも思ってるんだけど、なかなか電話するのも億劫でねえ」
そんなことを言ってくれるのは世界中でこのひとだけである。(父は思っても言わないし)
あと50年も生きようだなんて贅沢なことは望まないけれど、とりあえずこのひとが生きている間は、自分もまともに生きる努力をするべきだと、根拠もなく思う。

「エレファントム」の収穫は、やはり、訳者の福岡氏が別の著書でも言及していた象と鯨の対話の場面。こういうドラマを数々拾い上げてきたワトソンという人物は何かの引力でも持っていたのだろうか。

いつものように、区民プールで1キロほど平泳ぎして帰宅。
HMV渋谷の試聴コーナーで聴いて衝動買いしたまま放置していたオケゲム「いかなる旋法にもなるミサ曲」、CPEバッハ「フルートのための協奏曲集」をかける。あのときワグナーのリングシリーズDVDのセールをしていたっけ。やっぱり買っておけばよかった。





2009⁄08⁄14(Fri) 21:01   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
お盆休み2日目


「南極料理人」は、つまり堺雅人を観にいったわけだが、心身にとってハードな生活の中で、食べものが与える物質的(なのはあたりまえだけれども)/精神的な癒しを思った。
極地の彼らは画面の中でひたすら食べている。零下数十度の寒さではエネルギー消費が激しいのか、高カロリーの食品ばかりで美味しそう。食事制限の身には若干つらい部分もあったが、好きな作品だった。吹雪も夏には目に涼しげで、良い。

さて昨日もいくつかDVDを見て、中に「いのちの食べかた」があった。オリジナルの題名は「our daily bread」。邦訳に苦心の跡が見られはするが、何か重要な意味を落としてしまっている気がしてならない。
ナレーションはなく、淡々と画面が切り替わる。野菜、鶏、豚、そして牛。生産は高度に効率化されており、狂いなく動き続けるシステムはある意味美しい。そこで生産されているものを「いのち」と見るかどうか。生産・加工する現場で働く人たちもまた何かを「食べる」。綿々と続く円環。ひとりで生きているのではないし、生きられもしない。肉体の中に入った食べものが生命を維持する仕組みもまた奇蹟のようである。一見、確かそうな様相は仮の姿であって、大きな流れの中にひととき結ばれる泡沫が我々の生命の実態である。

プールの後、心拍数が高いうちに冷房のきいたマックに寄り、「あたしってばこういう話が好きなんだよなあ」と半ば暗示をかけながら、しばらく放置していた「自由は進化する」を読む(決定論のあたり、言いたいことは分かるけれども、理数っぽい話が難しかったので暗示でもかけないと進めそうになかった)。心拍数が高くどきどきしているときは、その時持った感情が増幅されるそうであるからして、この本は1キロ泳いだ後の雑味ない気分で読むべきと考えた。奏功したのか、飛ばし飛ばしでなんとか4章まで読み進む。





2009⁄08⁄14(Fri) 09:05   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top

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