アンジェイ・ワイダ監督のドキュメンタリーを見た。
少し前、ネットを検索していて最新作『カティン』に関する情報にたどり着いたのは、たしかペンデレツキを調べていたときで、監督の名前に聞き覚えがあったから1時間ぐらいはまじめに見ていたと思う。
ポーランドへの関心はほとんど「Everything is illuminated」以降に始まっていて、あの小説さえも全部読み通したわけではないのだけれどもイライジャ・ウッドの出ていた映画は見たりと、途切れ途切れに続いていた。
ワイダ監督の凄まじさは、共産主義政府の検閲をスルーして作品を上映までこぎつけるという熱意に既に表現されていて、もうそこに何かコメントできるような資格は私のような生ぬるい人間にはない。
敢えてそのような重い問題に関連するエントリーをするのは、ちょうど考えていた多声性に関するヒントを得たからだった。
「灰とダイヤモンド」は、ワルシャワ蜂起を題材とした作品で、反共テロリストのマチェックは、ゴミ捨て場で殺害されるという最期を迎える。
今も残る検閲会議の文書から、このラストは政府側に賞賛されたという。
監督としては、スルーしなければ上映できないための苦渋の選択だったのかとも考えられるこの場面は実は別の意味を含んでいて、反共主義に賛同する人たちにはこのラストは共感を得るに違いないとの確信があったという。
2つの全く逆の立場の人間が共感を覚える作品があり得るということ、それを撮影しなければならなかったという制約はあったにしろ、そこから名作が誕生したという事実は、多声性という概念を考える上でひとつの大きなヒントとなった。
この映画が監督としての自分を作ってくれたというワイダ監督のコメントを聞きながら、そんなことをかんがえていた。
少し前、ネットを検索していて最新作『カティン』に関する情報にたどり着いたのは、たしかペンデレツキを調べていたときで、監督の名前に聞き覚えがあったから1時間ぐらいはまじめに見ていたと思う。
ポーランドへの関心はほとんど「Everything is illuminated」以降に始まっていて、あの小説さえも全部読み通したわけではないのだけれどもイライジャ・ウッドの出ていた映画は見たりと、途切れ途切れに続いていた。
ワイダ監督の凄まじさは、共産主義政府の検閲をスルーして作品を上映までこぎつけるという熱意に既に表現されていて、もうそこに何かコメントできるような資格は私のような生ぬるい人間にはない。
敢えてそのような重い問題に関連するエントリーをするのは、ちょうど考えていた多声性に関するヒントを得たからだった。
「灰とダイヤモンド」は、ワルシャワ蜂起を題材とした作品で、反共テロリストのマチェックは、ゴミ捨て場で殺害されるという最期を迎える。
今も残る検閲会議の文書から、このラストは政府側に賞賛されたという。
監督としては、スルーしなければ上映できないための苦渋の選択だったのかとも考えられるこの場面は実は別の意味を含んでいて、反共主義に賛同する人たちにはこのラストは共感を得るに違いないとの確信があったという。
2つの全く逆の立場の人間が共感を覚える作品があり得るということ、それを撮影しなければならなかったという制約はあったにしろ、そこから名作が誕生したという事実は、多声性という概念を考える上でひとつの大きなヒントとなった。
この映画が監督としての自分を作ってくれたというワイダ監督のコメントを聞きながら、そんなことをかんがえていた。
北風は、ぴゅうぴゅうと吹いたのだったっけ、いや何か違う気がする、と思いながらコートのポケットに両手を深く入れて歩く。
そのときは教育テレビを見ていた。
北原白秋が作詞した「ペチカ」は、どこか外国の暖炉のようなもののことだったと記憶しているが、晩年に現地の発音に近づけるために「ペイチカ」と歌ってほしいと言ったのだそうだ。「イ」が入ると優しい響きになる。
フレーミーという犬のキャラクターを前に見かけて良いなぁと思っていたが、そのとき聞いたら更に兄弟が登場していて、それがなかなか良いのだった。
四角い顔をしているからフレーミーという名前の彼(か彼女)には兄弟(か姉妹)がいて、遊んだり喧嘩していると混じってしまって誰が誰だか分からなくなる。でも見分け方は実は簡単。姿は似ていても好き嫌いは異なるから好物(例えばチーズ)を置いてやればたちまち3匹が判別できるよ、という歌。
個性とかいうとなんか難しいけれど、根っこのところ好き嫌いだよなぁ。
好き嫌いを大切に。
あ、北風は「ぴいぷう」、でしたっけ。そうだ、こっちの方が好きだ。
そのときは教育テレビを見ていた。
北原白秋が作詞した「ペチカ」は、どこか外国の暖炉のようなもののことだったと記憶しているが、晩年に現地の発音に近づけるために「ペイチカ」と歌ってほしいと言ったのだそうだ。「イ」が入ると優しい響きになる。
フレーミーという犬のキャラクターを前に見かけて良いなぁと思っていたが、そのとき聞いたら更に兄弟が登場していて、それがなかなか良いのだった。
四角い顔をしているからフレーミーという名前の彼(か彼女)には兄弟(か姉妹)がいて、遊んだり喧嘩していると混じってしまって誰が誰だか分からなくなる。でも見分け方は実は簡単。姿は似ていても好き嫌いは異なるから好物(例えばチーズ)を置いてやればたちまち3匹が判別できるよ、という歌。
個性とかいうとなんか難しいけれど、根っこのところ好き嫌いだよなぁ。
好き嫌いを大切に。
あ、北風は「ぴいぷう」、でしたっけ。そうだ、こっちの方が好きだ。
図書館が遥かに煙る知の峰々の稜線とも思えたのは過去の話だと分かってはいても、PCのない今、実際のところ足が向くのはやはり図書館だった。
夕刻ふとテレビをつけたら、「時の流れ」という文字を掲げた人たちがいて少し驚く。
図書館への道々、最近どこかで「孤独」という言葉は相対する自立とか自由という概念の登場する近代以降に初めて使用されたと書いてあったのを思い出し、果たしてそうなんだろうかと考えていた。仏経典には独生独死独去独来という言葉が2000年以上も前から刻まれていて、ただそれは集団や社会に対する個ないし孤独というものとはどうも意味あいが違うようにも思える。
人間が自身の生から死という一連の生命の流れを捕捉しようとするとき、そこに生起する感情は、表現はどうあれ「独」というものではなかろうか。
ただ方法に確信などはないながらも、それがその先に光を感じつつ受容できるものかもしれないとも思えないわけではない。
「風の旅人」の表紙が素敵だなと買ってよく見てみたら大竹伸朗さんだった。
私が考えるともなく散漫に思ったようなことは、既にもっと優れて美しく、勇気ある形でそこに提示されていた。
夕刻ふとテレビをつけたら、「時の流れ」という文字を掲げた人たちがいて少し驚く。
図書館への道々、最近どこかで「孤独」という言葉は相対する自立とか自由という概念の登場する近代以降に初めて使用されたと書いてあったのを思い出し、果たしてそうなんだろうかと考えていた。仏経典には独生独死独去独来という言葉が2000年以上も前から刻まれていて、ただそれは集団や社会に対する個ないし孤独というものとはどうも意味あいが違うようにも思える。
人間が自身の生から死という一連の生命の流れを捕捉しようとするとき、そこに生起する感情は、表現はどうあれ「独」というものではなかろうか。
ただ方法に確信などはないながらも、それがその先に光を感じつつ受容できるものかもしれないとも思えないわけではない。
「風の旅人」の表紙が素敵だなと買ってよく見てみたら大竹伸朗さんだった。
私が考えるともなく散漫に思ったようなことは、既にもっと優れて美しく、勇気ある形でそこに提示されていた。
鼻が悪いのは子供の頃からで、花粉症という言葉がない時分からアレルギー性鼻炎と診断されていた。今になっても母は直に季節だからビタミン摂取、ヨーグルトを食べろ薬を飲めのと電話をよこす。確かに鼻を通過する空気の量が減ってきたような気がして、以前に買ったまま殆ど使わずにいた「ブリーズライト」なるミント臭のする絆創膏状のテープを鼻の骨に直交するように貼ってみる。テープには骨になるものが入っていて、その反発力で鼻孔が開く仕組みである。気持ちがよい。何故今まで使わずにいたのだろう。
今日もぼんやりしながら本を読んでいた。井上ひさし「黙阿弥オペラ」、「四千万歩の男」。後者は伊能忠敬を描いたもので、単行本で4冊もあって長い。こんなに長いものを延々と書ける小説家という人種に畏敬を覚える。
途中で集中力が尽きて橋本治と小林秀雄を代わる代わる混ぜる。
フライングサーカスのライブ版を見る。ローワン・アトキンソンのインタビュアーの話が好きなのだ。インタビュアーが相槌の代わりに「シュッ」とか「クワッ」とか妙な音を発するため、一向に話が進まないという裏も表もない至極単純な話で、でもアトキンソンが演じると面白いのはなんとなく推測してもらえると思う。
ついでにアダム・サンドラーのライブDVDも見た。これも、彼がやるからまあ可愛いのかなあという種類のものだった。そこにいくとこの間見せてもらった「テッドとラルフ」は役者よりも内容そのものが既にコメディの範疇を抜けていて、純愛悲恋ものドラマみたいな面白さがあった。
ああいうのを見てしまうとレンタル屋で流通しているものは一体なんだろうという気もしてくる。
アトキンソンをもう一度見る。素敵だ。前作の「Mrビーン」映画は今ひとつだったけれど、今回はどうなんだろう。
図書館で外国人向けの日本文化紹介ビデオを見たりしてみる。義経千本桜の白い狐が可愛い。
改めて見ると、能も文楽も良い。今朝テレビで見た歌川国芳の鯨の絵も良かった。日本にも色々と良いものがあるのに、我ながら不勉強も甚だし。知らないとは恐ろしい。
今日もぼんやりしながら本を読んでいた。井上ひさし「黙阿弥オペラ」、「四千万歩の男」。後者は伊能忠敬を描いたもので、単行本で4冊もあって長い。こんなに長いものを延々と書ける小説家という人種に畏敬を覚える。
途中で集中力が尽きて橋本治と小林秀雄を代わる代わる混ぜる。
フライングサーカスのライブ版を見る。ローワン・アトキンソンのインタビュアーの話が好きなのだ。インタビュアーが相槌の代わりに「シュッ」とか「クワッ」とか妙な音を発するため、一向に話が進まないという裏も表もない至極単純な話で、でもアトキンソンが演じると面白いのはなんとなく推測してもらえると思う。
ついでにアダム・サンドラーのライブDVDも見た。これも、彼がやるからまあ可愛いのかなあという種類のものだった。そこにいくとこの間見せてもらった「テッドとラルフ」は役者よりも内容そのものが既にコメディの範疇を抜けていて、純愛悲恋ものドラマみたいな面白さがあった。
ああいうのを見てしまうとレンタル屋で流通しているものは一体なんだろうという気もしてくる。
アトキンソンをもう一度見る。素敵だ。前作の「Mrビーン」映画は今ひとつだったけれど、今回はどうなんだろう。
図書館で外国人向けの日本文化紹介ビデオを見たりしてみる。義経千本桜の白い狐が可愛い。
改めて見ると、能も文楽も良い。今朝テレビで見た歌川国芳の鯨の絵も良かった。日本にも色々と良いものがあるのに、我ながら不勉強も甚だし。知らないとは恐ろしい。
図書館に向かって歩き始めた時はまだ空から降るものは途切れ途切れの線にしか見えなかったが、閉館の頃には既に歩道は白くなっていた。スニーカーが雪を踏む「きゅっ」という音を外国人はどんな擬音語で表現するのだろう、と足元の白色を見つめながらゆっくり歩く。
身体性とは時間である、とか小説とは読み進めるのにかかる時間に伴って内的に構築される世界のことであるとかいうようなことを最近読んで、時の流れということが気にかかっている。
それを意識させる景色には何かがあると思う。
身体性とは時間である、とか小説とは読み進めるのにかかる時間に伴って内的に構築される世界のことであるとかいうようなことを最近読んで、時の流れということが気にかかっている。
それを意識させる景色には何かがあると思う。
終業後、水道橋へ。人生はますます喜劇化していて、次の職場で扱う商品はゴム手袋とコンドームになりそうだ。
申請書を作るだけだから別に何を売っていてもかまわないし、今の職場より学術系の英語が鍛えられそうだから良いのだが、、、
それにしても笑える。
ここ数日WEBで店頭在庫をチェックしていた『思考の補助線』を入手。
連載を知った頃には既に終了に近くて、バックナンバーも図書館に見あたらなかったから、発刊を楽しみにしていた。
本心から書かれた言葉だけが胸の奥深い場所に届く。
そんな本が大好きだ。
まだPCは帰ってこない。
申請書を作るだけだから別に何を売っていてもかまわないし、今の職場より学術系の英語が鍛えられそうだから良いのだが、、、
それにしても笑える。
ここ数日WEBで店頭在庫をチェックしていた『思考の補助線』を入手。
連載を知った頃には既に終了に近くて、バックナンバーも図書館に見あたらなかったから、発刊を楽しみにしていた。
本心から書かれた言葉だけが胸の奥深い場所に届く。
そんな本が大好きだ。
まだPCは帰ってこない。
学ぶとは「まねぶ」に由来するというし、とミラーニューロンについて調べてみたりする。
鳥の歌の研究は、なにかと面白い。
模倣から創造に転化するのはどんな時なんだろうか。
アウトプットしたものがフィードバックされることも重要なのかもしれない。
そんなこんなで今日は面接1件。
鳥の歌の研究は、なにかと面白い。
模倣から創造に転化するのはどんな時なんだろうか。
アウトプットしたものがフィードバックされることも重要なのかもしれない。
そんなこんなで今日は面接1件。
寒い。
自室のエアコンはリモコンが故障していて、本体で電源の入切はできるが温度調節ができない。一定の温度に達すると勝手に冷気を送風し始めるからたまったものではない。
北陸にいた時分は、この程度の雪には一向動じず外出したものだが、それは車があったからであって、徒歩と電車を主な交通手段とする都内住まいにとって、雪の降る日は室内で白い景色でも眺めながら読書でもすべしということになる。
相変わらず注意散漫で、小金を得るために古本屋に売り払った後に残った未読本(別名中途挫折本)を数冊かわるがわる読んでいる。
BGMは久しぶりの「ばらの騎士」とビル・エヴァンス、キース・ジャレット。
本は「言語にとって美とは何か」「小説の誕生」「源氏供養」「私の好きな曲」「私の人物案内」。最近英語の本ばかり読んでいてストレスがたまっているのか、割に日本語が好ましく読める。
保坂さんも著作の中で、何度読んでも頭に入らなかった本がある時何故か読めてしまった話をしているが、確かにその本に出会うべき時があると思う。
「その時」を逃さないために、本はなるべく借りずに買いたい。
モノを処分するとき余り躊躇しない性分だが、そんな自分が捨てようとして捨てられないものの中には、何か自分に必要なものがあると考えるべきかもしれない。
昨日トーク番組に出てきたアリ…の石井さんは古畑任三郎時代からなんとなく好きで、見かけるとついじっと見てしまう。自転車集めが趣味だそうだが、趣味もその過程で「何でこんなことしてるんだろう」と思うときが必ずあるが、そこを超えても続けていると意外に長続きする、と語っていた。
自分に必要な言葉は意外な時と所からも与えられるものだ。心を開いておくこと、と思う。
自室のエアコンはリモコンが故障していて、本体で電源の入切はできるが温度調節ができない。一定の温度に達すると勝手に冷気を送風し始めるからたまったものではない。
北陸にいた時分は、この程度の雪には一向動じず外出したものだが、それは車があったからであって、徒歩と電車を主な交通手段とする都内住まいにとって、雪の降る日は室内で白い景色でも眺めながら読書でもすべしということになる。
相変わらず注意散漫で、小金を得るために古本屋に売り払った後に残った未読本(別名中途挫折本)を数冊かわるがわる読んでいる。
BGMは久しぶりの「ばらの騎士」とビル・エヴァンス、キース・ジャレット。
本は「言語にとって美とは何か」「小説の誕生」「源氏供養」「私の好きな曲」「私の人物案内」。最近英語の本ばかり読んでいてストレスがたまっているのか、割に日本語が好ましく読める。
保坂さんも著作の中で、何度読んでも頭に入らなかった本がある時何故か読めてしまった話をしているが、確かにその本に出会うべき時があると思う。
「その時」を逃さないために、本はなるべく借りずに買いたい。
モノを処分するとき余り躊躇しない性分だが、そんな自分が捨てようとして捨てられないものの中には、何か自分に必要なものがあると考えるべきかもしれない。
昨日トーク番組に出てきたアリ…の石井さんは古畑任三郎時代からなんとなく好きで、見かけるとついじっと見てしまう。自転車集めが趣味だそうだが、趣味もその過程で「何でこんなことしてるんだろう」と思うときが必ずあるが、そこを超えても続けていると意外に長続きする、と語っていた。
自分に必要な言葉は意外な時と所からも与えられるものだ。心を開いておくこと、と思う。
テレビをつけっぱなしにして『わざとらしさのレトリック』(佐藤信夫著)を読んでいて我が意を得たりと手を打った。
修辞の「わざとらしさ」と「まことしやか」を対比し、前者の例として夏目漱石の日本語との微妙な距離感から生じる言葉遊びを挙げている。更には、わが中高時代の愛読書だった北杜夫についてまで言及している。(この手の論で、かつて北杜夫が取り上げられたことがあっただろうか、感無量なり)
(以下引用)
「ここであわてて《まことしやか》と《わざとらしさ》という対概念について、弁明しておかなければならない。どちらも、普通はかなり悪い意味で使われる。社会関係で、というより、平たく言えば人づきあいのなかで、悪口の色に染められている。しかしここでは、しばらくのあいだ、その悪口めいたニュアンスを消しておきたいのだ。どうしても消しきれないのなら、せめて、そうだ、《わざとらしさ》については(男らしさの《らしさ》のように)ほめる意味合い八割に対してけなす感じは二割ぐらいにおさえていただかねばならない。それから《まことしやか》のほうは、とりあえず、語感の良し悪し半々ずつということにしておこう(中略)井上ひさしの言語表現の最大の特徴は、つねにわざとらしいということである。彼はいつもまことしやかに書くことに、さからっている、あるいは恥じらっているようだ」
「このたぐいの、中身より外形…によるおかしみをはやらせ、日本語に弾性を回復させた人のひとりは井上ひさしであった(プライオリティーという勲章なら、むしろ北杜夫のものであろうか)」
(引用終わり)
《わざとらしさ》という言葉の良いイメージにおいて思い浮かぶのは、アリとキリギリスの石井さんである。
それは、本を読みながら聞こえていたテレビのトーク番組にたまたま石井さんが出ていただけではないだろう、たぶん。
修辞の「わざとらしさ」と「まことしやか」を対比し、前者の例として夏目漱石の日本語との微妙な距離感から生じる言葉遊びを挙げている。更には、わが中高時代の愛読書だった北杜夫についてまで言及している。(この手の論で、かつて北杜夫が取り上げられたことがあっただろうか、感無量なり)
(以下引用)
「ここであわてて《まことしやか》と《わざとらしさ》という対概念について、弁明しておかなければならない。どちらも、普通はかなり悪い意味で使われる。社会関係で、というより、平たく言えば人づきあいのなかで、悪口の色に染められている。しかしここでは、しばらくのあいだ、その悪口めいたニュアンスを消しておきたいのだ。どうしても消しきれないのなら、せめて、そうだ、《わざとらしさ》については(男らしさの《らしさ》のように)ほめる意味合い八割に対してけなす感じは二割ぐらいにおさえていただかねばならない。それから《まことしやか》のほうは、とりあえず、語感の良し悪し半々ずつということにしておこう(中略)井上ひさしの言語表現の最大の特徴は、つねにわざとらしいということである。彼はいつもまことしやかに書くことに、さからっている、あるいは恥じらっているようだ」
「このたぐいの、中身より外形…によるおかしみをはやらせ、日本語に弾性を回復させた人のひとりは井上ひさしであった(プライオリティーという勲章なら、むしろ北杜夫のものであろうか)」
(引用終わり)
《わざとらしさ》という言葉の良いイメージにおいて思い浮かぶのは、アリとキリギリスの石井さんである。
それは、本を読みながら聞こえていたテレビのトーク番組にたまたま石井さんが出ていただけではないだろう、たぶん。
4時に目が覚めて、いやあまだまだと布団に潜った。次の目覚めが9時55分とは遅すぎる。
昨日紀伊國屋の階段を降りようとして、ポスターに見慣れた顔写真を見つけた。チケットカウンターは閉まった後だったから、開店の10時に電話しようと思っていたから、良いといえば良いタイミングだったのかもしれないと思い直す。
図書館でコピーした論文「えり好み度と協力の共進化」がさっぱり頭に入らず、字幕が目に入らないようにして見た映画「再会の街で」はよく聞き取れなくて落ち込む。
アダム・サンドラーは好きだが発音が悪かったと自分の耳ではなく他人のせいにするのも空しい。
勉強法の本でも読んで元気を出そう。
昨日紀伊國屋の階段を降りようとして、ポスターに見慣れた顔写真を見つけた。チケットカウンターは閉まった後だったから、開店の10時に電話しようと思っていたから、良いといえば良いタイミングだったのかもしれないと思い直す。
図書館でコピーした論文「えり好み度と協力の共進化」がさっぱり頭に入らず、字幕が目に入らないようにして見た映画「再会の街で」はよく聞き取れなくて落ち込む。
アダム・サンドラーは好きだが発音が悪かったと自分の耳ではなく他人のせいにするのも空しい。
勉強法の本でも読んで元気を出そう。

