一歩ずつ行けばよい


夜勤にて、
多少寝心地のよい寝床を整えることに成功し
少しはまともな睡眠を得た。
(どんなふうに寝たかは、
とてもここには書けないけれど)

夕方、諸々の用事を終えて
中野の書店にて
稲盛和夫『生き方』を立読み。

松下幸之助さんの「ダム」の逸話は
以前、どこかで聞いた覚えがあった。
これが
欲しかった答だ、と思ったら
突如ぼろっと涙が溢れた。

あわてて周囲を見回す。
感情的になった一瞬に
涙を抑える術を会得したいと
長いこと思っているのだけれど
いつも堪えられない。

そろそろ髪型を変えたいと
思っているが、
こんなとき
髪が長いのは顔が隠れて役に立つ。

原理原則に忠実に、
広中先生の話、
サムシンググレート、
花という存在を演じている

というあたりが
心に残った。



中野図書館に行く。
数学の本を4冊、CDとビデオを借りる。

ビデオは秋山仁さんの
「中学生の」(!)数学。

これでいいのだ。
どうせ私の数学能力は中学生レベルだ。
結局、数学が
ずっと私の前に立ちはだかっている壁であり
ボトルネックなのだ。

6年生の頃、手指が短くて
ピアノ演奏家の道はないと客観的に烙印を押されて
ヤマハの作曲コースに行ったものの
結局楽譜が書けなくて、忍耐できずに
リタイアした。
どうやらこれも数学の問題に通じるらしいと
作曲家の江村さんの話を聞いて
気がついた。

道はOXしかない。
ベルグソンはどんな意味で言ったのかは
何度読んでもよく分からないが、
これを越えるしか道はない。

CDはワグナー。
最近見かけた題名が
たまたま目の前の棚に置いてあった。



手の届かない世界への憧憬を
届かない焦燥ゆえに否定しようとするのは
やめよう。

因果は狂わない。
結果が出るのに時間がかかるだけ。
欲するものに忠実に、
熱烈に思えば叶う。
相手は人間ではなく学問なんだから、
どれだけ思ったって
重荷になることもないし、楽なもんだ。
一歩ずつ行けばいい。

曇った視界の中で、そう思った。








2007⁄02⁄18(Sun) 20:34   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
一人ひとりが主観的事実のみ存在する世界に生きている


ユクスキュル著『生物から見た世界』を読む。

幼児期の記憶の中で、目に映る周囲の風景は一様に大きかった。
大人になって同じ景色を見て、あの威圧感はどこに消えたのかと
少なからず脱力した経験がある。
背丈が小さかったせいだと思っていたが、
他にも理由があったことをこの本で知った。
視空間は子供と大人では異なるのだ。

カメラのレンズと人間の目はよく似ていて、
ピントを合わせるように、目の筋肉も収縮と弛緩によって、物体を網膜の上にぴたりと合わせる。
通常、地平線として認識されるのが、
人間の視界で最も遠い平面、最遠平面だ。
大人ならば一般的に10メートル程度まで遠近を判断でき、
更に筋肉のはたらきにより、
6キロから8キロ付近の地平線までは、
モノは遠くなるに従い小さく見える。

ところが、乳児はこの筋肉が未発達だから、
地平線が約10メートルの場所にある。
10メートル以上離れたものは一様の大きさに見えるのだ。
遥か遠方の建物の屋根の上にいる人に「手を伸ばせば触れられる」
と見える。
幸いにも、息苦しい視空間は目の筋肉の発達に伴い広くなり、
地平線は遠くなっていくが、
最遠平面があることに変わりはない。

ハエが飛び立つのは
人間の手が約50センチに迫ったときだという。
50センチより遠ければ見えない。
ハエの最遠平面は50センチであり、
50センチ大のシャボン玉のような世界の中でハエは生きている。

人間にもハエ同様に最遠平面があるのは上述の通りだ。
視覚以外の知覚も含め、人間に認識できるのは、
自分の「シャボン玉」の中の世界だけである。
私が認識する世界と隣人の世界は異なる。
全ての生物一主体に一個ずつがシャボン玉に包まれており、
摩擦もなく接しあっている。
その個々のシャボン玉を「環世界」と呼ぶ。

ダニ、ウニ、コクマルガラス、犬、ほかの様々な生き物が、
何を頼りに自らの環世界を認識しているのか、
―例えばダニは酪酸の匂いを頼りに産卵し、
犬は自らの尿の匂いによって故郷に帰ることができる―
を紹介した後で、
筆者は人間の環世界も同様であると示す。

他の生物に比して行動量が多いため知覚できるものが多く
複雑化してはいるものの、
人間の環世界もまた、外的刺激によって構築されるのではない。
人間という主体が個人的経験を繰り返すことによって
作り上げられた主観的な空間が人間の環世界だ。
更に言えば、強力だが主体にしか見えない現象、
いかなる経験とも関係のない、
あるいはせいぜい一度の体験にしか結びついていない、
「魔術的な」空間さえ現れる、と説く。
魔術的と言葉は極端だが、
子供時分の「ごっこ遊び」のように、
振り返れば誰にも思い出される経験であろう。

ちょうど渡り鳥の「なじみの道」は部外の観察者に見えないように、
主体の目が環世界に刻印する様子は
他者から客観的に観察されることはなく、
繰り返すが環世界の存在は他から認識できない。
だから客観的裏付けはない。
しかし、いずれの主体も主観的事実だけが存在する
環世界に生きている。
(仏典の「三界唯一心 心外無別法」という言葉が
自然と浮かんでくる言説。
では、実際この目に見える
客観的事実らしきものはどう説明するのか?
については後日考えることにして一旦終了とする)







2007⁄01⁄06(Sat) 03:37   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
『論文の書き方』意味ある真実とは、私というフィルターを通して再構成された真実


久しぶりに真面目に文章を書きました。
新書をまとめるのに
何字にすれば適当か分からなかったのですが、
とりあえず1500字でやってみました。

『論文の書き方』 清水幾太郎 著

極論すれば、清水幾太郎は本書で文章の書き方を論じているのではない。読み、書き、考えることの初心者に向けて「頭の使い方」を指南している。そこが面白い。

・短文練習で本質を見抜く鍛錬をせよ

多くの人間にとって読書は、読んで終わりだ。読書中、自分では納得しているようでも、単なる作者への共鳴であり、読後にはぼんやりした輪郭だけが残り、その「感じ」もいずれ消えてなくなる。
読んだ記録を残そうと思って初めて、書物への緊張した姿勢が生ずるから、短文で記録することを前提に読むことを薦める。
短文で書くからこそ、読んでいる間の客観的で慎重な視点を一旦捨てて、自分の主観的視点から拾い直すことになる。
読んだ後に記録することで、はじめて読書が完結するとさえ言える。
その際、無闇な引用は避ける。権威ある言葉を捨てた後に残るもの、それが裸一貫になって攻めるべき自分の論点だ。

・真似の効用

ある体験を文章にしようと思ったとき、意識的にしろ無意識にせよ、記憶の中にある「既成の文章の形」が頭に浮かんでいる。
真似る対象が有名である場合は、模倣と呼ばれるが、無名の場合は、同じ模倣行為が創造と呼ばれる。
文体を真似ようとすれば、思想も真似ることになる。
思想とは経験を処理し組織する方法である。
自分自身の経験を言葉で掴み出そうとするときに、真似ている相手の処理方法を採用するから、文体だけ真似ることはできず、思想も真似ている。
逆に、思想を真似ると文体も真似るという副産物がついてくる場合もある。文体を真似るが故に、体験まで歪曲することさえある。
模倣する価値あるものとの出会いは幸せである。
模倣によって、自分のスタイルが出来上がっていく。ただ、一度出来上がったスタイルも永遠ではない。生まれては崩れ、流転するものである。

・意味ある真実とは

空間とは、ひとつの時間に多くのものを含む多重構造である。空間を切り取って文章にする行為は、多くを含む空間から自分の時間軸で世界を作り上げることだ。
そこに新しい現実が生まれる。
これが本当の現実であり、意味ある真実である。
意味ある真実は、人間の責任、人間のはたらきをとおして初めて成り立つ。
空間を自分の時間軸で翻訳するのが文章である。
多くを含む空間であるゆえに、対立するものあり濃淡もある。それが見えてこないうちは、本当には踏み込めていないということだ。十分に考え抜くこと、よく調べ上げること、もう済んだと思ったことを繰り返してみること。
源氏と平家然り、明瞭な対立軸が見つかれば、誰が書こうとドラマティックに書ける。
そして、見えてきた対立軸とは、実は空間を見る「私」の精神の中にあったものなのだ。
それが見えるまで、踏みこんで、見ることだ。









2007⁄01⁄02(Tue) 22:10   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
まずは「見る」ことから。


母は茶道裏千家の師範である。
そのせいで、私は小学生時分から
稽古の席に座らされた。

不器用なせいか、
畳んだ袱紗はすぐに型崩れしたし
正座の足は痛かった。
薄茶でも子供の舌には苦かったから
後味を甘くするために
せめてお菓子を最後に食べたかったが
先に食べると決まっていた。

中学に入ったのを理由に
これ幸いと止めたので、
今では殆ど作法は忘れたが、
抹茶のたて方だけは、
まあまあである。

手首のグリップをきかせて茶筅を振り、
最後に「の」の字を書いて
泡を真ん中に持ってくる。
しゃわしゃわと音も良い。

実家に居た頃は
「邪道」呼ばわりされるのが
明らかだったので控えたが、
一人暮らしを始めてからは
「抹茶ラテ」を
茶筅で泡立てて楽しんでいる。
母には絶対に内緒だ。

邪道でもいい。
牛乳が入ったほうが美味しい。

そんなわけで、
既にうろ覚えだが、
茶道では「拝見」という作法がある。
茶碗を、ただ見るのである。

おごそかに
「拝見いたします」
と言いながら、まず全体像を見る。
次に、正座の膝に腕を乗せ
落とさないように低い位置で茶碗を手に取り、
ぐるりと回して眺める。
最後に、
また畳の上に置いて、じっと見る。

子供の目には
ずいぶんと長い時間、
茶碗を眺めている大人が
滑稽に思えた。

母の持っている茶碗など
大して高価なものであるはずもないと
分かっていたから、
尚更おかしかった。

いつも使っている茶碗の、
何を見るの?
と、やや茶化して母に問うたことがある。

「形とか、色よ。」

とだけ彼女は答えた。



突然そんなことを思い出したのは
小林秀雄を読んだからだった。

今日は図書館の年内の開館最終日だった。
「美を求める心」
の全文が読みたくなって
全集の11巻目を予約した。
気がかりを持って年を越すのが嫌だったので、
昼前から出かけた。

最近の図書館は便利で、
ネットで予約しておけば
カウンターに取置してくれて、
館内で探す手間が省ける。

全集本はずっしり重くて、
部分だけさっと読んで
借りずに返してしまおうと
頁を開いたところで
はたと手が止まった。

話し言葉で書かれた文章だったせいで、
自然と頭の中で、以前に聞いた小林秀雄の声がかぶった。
甲高い声が熱を帯びているように思えた。

野球選手にはボールが目の前で
止まって見えるというのは嘘ではなかろう、と例を挙げて、
画家や音楽家も同様に
眼や耳の訓練と努力の結果、
微妙な色や音を識別して作品を作るのだから、
それが諸君の眼に映ってきたり、
耳に聞こえてくるには
やはり訓練と努力が必要なのだ、と語っていた。

時計を見るのは、時間を知るため。
だから針しか、または数字しか見ない。
椅子は腰掛けるものだから、
その形をはっきり見定めている人は少ない。

「ただ物を見るために物を見る、
そういうふうに眼を働かすという事が、
どんなに少ないかすぐに気が付くでせう」

そして、
そんなふうに見させるのは
愛情なのだ、と。

茶碗を「拝見」していた母が
目の奥をよぎった。


小林は更に、感情を表現することについても
言及している。

感情は動くもの。
だから、やがて静まり、消えてしまう。
強いけれど不安定な感情というものを
言葉という姿で安定させるのが表現だと。

「一輪の花に美しい姿がある様に、放って置けば消えて了ふ、取るに足らぬ小さな自分の悲しみにも、これを粗末に扱はず、はっきり見定めれば、美しい姿のあることを知つてゐる人です。悲しみの歌は、詩人が、心の眼で見た悲しみの姿なのです。これを読んで、感動する人は、まるで、自分の悲しみを歌つて貰ったやうな気持ちになるでせう。悲しい気持ちに誘はれるでせうが、もうその悲しみは、ふだんの生活のなかで悲しみ、心が乱れ、涙を流し、苦しい思ひをする、その悲しみとは違ふでせう。悲しみの安らかな、静かな姿を感じるでせう。そして詩人は、どういふ風に、悲しみに打ち勝つかを合点するでせう。」
(「美を求める心」小林秀雄 より引用)

どんな感情であっても
そのなかに美しさを見て、
何か光るものに変えることができる。
それが、表現することを知った者として
取るべき感情の克服法なのだと
最近何度も聞かせていただいていたものの、
漠然としていたものが
おぼろげながら、
形を成してきたような気がした。

感情に溺れず、負けず、見定め、
言葉の姿に整えてみせる人。
わたしも、そんな人になりたい。

まずは「見る」ことから
始めようと思う。






2006⁄12⁄29(Fri) 01:17   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
夢の浮橋


定家明月記私抄 / 堀田 善衛

講演で聞いたり、
ブログで読んだりという接点があって
原典を探したけれど見当たらず。
(あっても読めないだろうことは
後に分かったが)
本屋放浪中、たまたま解釈本に出会い、
きっとこれだと思って読み始めたら
止まらなくなった。
元来短歌の素養などないから、
これは堀田善衛の
文体に負うところが大きい。

平成18年の年の瀬に
私が『定家明月記私抄』という
ちくま学芸文庫の頁をめくり
その中の世界では更に
堀田善衛が膨大な漢文の集積である
『明月記』を紐解いていて
そして『明月記』の中には
騒乱時代の宮廷歌人・藤原定家の生活がある。

この入れ子構造の「覗き」状態に
ふと気づき、
独りしてふふふと笑う。

入電が少ないので、
休憩時間にいくつかの短歌をメモして
密かに資料の中に滑りこませ
カンニングの手法で
ちらちらメモを眺めつつ
情景を思い浮かべていた。

春の夜の夢の浮橋とだえして
嶺に別るる横雲の空

授業で習ったことを
かすかに記憶しているぐらいだから
有名な歌なのだろうけれど
この歌は何か特別なものを
喚起させて印象深い。

「ところで、この十二首中には、有名なことに
なってしまった「夢の浮橋」の一首がある。
春の夜の夢、夢の浮橋、憂き(浮)夢の端、夢の途絶、途絶した橋、断橋−その夢、恋の夢の端に、嶺に立分れる横雲の空。
横雲もまた断橋である。
源氏物語の最終部をふまえて、浮舟が見捨てられたままに
されていることなどまでがこの三十一音詩に含められている、
これはもう教養による人工の極と言うべきものであろう。
かくまでの巧みと寓意と象徴は、他を考えてみても
せいぜいでマラルメの十四行詩にあるくらいのものであろう。
音韻のなだらかさにも耳を澄したいものである。」
(堀田善衛『定家明月記私抄』夢の浮橋より)

当時の宮廷において、
歌とは芸術であるとともに
生活の場における挨拶でもあった。
許しを請い、許しを与えるのもまた
歌によってであった。

日々構想は練っていたにせよ、
これだけの歌が
生活の場からほぼ即興で生まれ、
それを解説なしに理解する人が
存在したという、当時の日本文化の「教養」に驚く。
ただ雅なだけでない
一首にかける緊迫した空気を
感じたりもする。

堀田善衛は続けて、当時の乱世ぶりや
定家37歳のやけくそ気味な日常を記した後、

「かの「夢の浮橋」は、かかる騒憂・尾籠の上に
架かっているのである。これを超現実と言わずして
何が、ということになろうか。超現実ということばが
かったるいくらいのものである。これはまた
超現実であり、形而上性に裏打ちされていればこそ、
京の自然の表現ともなりえているのである。
その逆ではない。暗澹として「望ヲ絶」たれた形而下が、春の夜に架けられた夢の浮橋を下方から艶に映し出させているかの
観がある」(同上)

と記している。

途絶えることによって
より鮮明に浮かぶ夢の浮橋。

三十一音の壮絶な世界が
某受注センターで
可愛いお受験親子からの電話を待つ私の頭の中で、
展開している。

そして、
そんなことは誰も知らない。

これもまた
ある種壮絶な日常の断片である。











2006⁄12⁄23(Sat) 09:37   読書 | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
循環によって生ずるもの+睡眠


図書館で借りてきた養老孟司『唯脳論』を
いま読み終わる。
この時間に読めたということは、
つまり、かなり面白いということ(笑)

分かってなかったなと思うのは、
意識とか心とかはまあそうなんだろうけれど、
その他言語とか思考とかその他もろもろ、
別モノとして機能を捉えるのではなくて、
何かが循環することによって必要が生じて
できてきたもの、
と捉えるのが理にかなってることが
色々あるということ。

睡眠の話、
これは「休み」ではなくて
エネルギー消費の観点からすれば
「積極的な活動」であり生の一形式と捉えるということ。

そういえば脳と睡眠について自問してましたが
その答えが
P123の終わりからP127までに
書かれてました。
(こういう書き方は手抜きかな。)

「しかも、睡眠はどうしても必要な行動であるから、
その間になにか重要なことが行われていることは間違いない。
クリックはそれを、覚醒時に取り込まれた
余分かつ偶然の情報を、訂正排除する時期だという。
そうした活動が夢に反映される。
「われわれは忘れるために夢を見る。」そうかれは言うのである。
 夢がなにかについてもおびただしい議論がある。
大抵の夢はどちらかと言えば不快なもので、
カルビン・ホールの一万例にのぼる夢の統計によれば、
夢の六十四%は、悲しみ、不安、怒りなどに結びついているという。
殺人や他人に対する敵意のある夢は、
友好的な気分の夢の二倍に達する。
これは人生そのものを反映しているようにも思われる。
その意味では、昔から言うように、
やはり「人生は夢」だと言うべきなのであろう」
(『唯脳論』P126〜127より引用)

ということから考えると、
意味不明の夢を
(たとえばひよこが死んでしまったなどと)
書くことは、
せっかく忘れようとしていることを
思い出すことになるわけで、
あまり有意義ではないわけだ。

自分はあまり夢を覚えていない人間で、
よく夢を見るというひとの話を聞くと
自分だけ損しているような気がしていたのだが、
別に夢を覚えているひとを羨ましがる必要もなく
忘れるべきことをしっかり忘れてくれている
良い脳なのに違いない。

で、何を基準として余分とか
合ってる間違ってる、だから訂正、という判断をするのか
なんてのは
個体差で片付く話なのか、
どうなのかなあ。

あとは、形はリズムだ、とか
言語の生い立ちとか
身体性の話、
時間と自己同一性という話も面白くて
もう少し聞きたい(読みたい)ところ。

運動系と知覚系の話あたりとか
物理系の言葉は
分からなかったので飛ばし読みした。

養老先生の本はイラストというか図が
とてもシンプルな線で、好み。
唯脳論 唯脳論
養老 孟司 (1998/10)
筑摩書房

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これから、やはり図の綺麗さに引かれて
借りてきた『脳と心の地形図』という本を
読みにかかるところなり。



いやあ、今夜というか今朝は
全く電話がかかってこないねえ。
わたしの睡眠及び読書を邪魔しないでくれる
善良なカスタマーのみなさま。
そうです、
夜も、朝も、電話はかけないに限ります。








2006⁄12⁄10(Sun) 03:56   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
砂だけが教えてくれた


学生の頃、国語の試験問題も悪くないと思ったのは、
北杜夫と小林秀雄、大岡信を知ったとき。
問題文になっていなければ、
自分から進んで読みはしなかったに違いない。

いま読んでいるのは大岡信。
コラージュが絵画であるように、
アンソロジーもまた作品である。
ことばの流星群―明治・大正・昭和の名詩集 ことばの流星群―明治・大正・昭和の名詩集
大岡 信 (2003/12)
集英社

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風の詩が気になった。

「ある時」

松の葉がこぼれている
どこやらに
一すぢの
風の川がある
(山村暮鳥 『雲』より)
(※「い」は、「わ行」の「い」)


「風をみた人はいなかった」

風をみた人はいなかった
風のとおったあとばかり見えた
風のやさしさも 怒りも
砂だけが教えてくれた
(岸田衿子『あかるい日の歌』より)

(※いずれも『ことばの流星群』所収)

見えるものから
見えないものを考える
という意味で、気になるのかな。

ベッドのぬくもりを思いながら
会社の机で眠れない夜を明かしつつ。







2006⁄12⁄04(Mon) 00:38   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
最近良かった本。


わたしを離さないで わたしを離さないで
カズオ イシグロ (2006/04/22)
早川書房

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最初から終盤までずっと引きずる
どうも何か変な感じ、が
ぐいぐい読ませて面白い。


ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論 ガリレオの指―現代科学を動かす10大理論
ピーター アトキンス (2004/12)
早川書房

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夜勤のたびに持っていくのだが
気がつくと眠っている(笑)
でも、昼間に読めば面白い。


やわらか脳―茂木健一郎「クオリア日記」 やわらか脳―茂木健一郎「クオリア日記」
茂木 健一郎 (2006/11)
徳間書店

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今年の夏からブログを読み始めたファンとしては、
過去分を読むことができて良かった。
ブログのライブ感って良いものなんだな、と
本を読んであらためて。



皆様から個別にお薦めいただいている本が
なかなか読めずにごめんなさい。
いずれ読まなくちゃと思ってるのですが
流れがこないとなかなか…。
こんな無精者ですが
懲りずにお薦めしてやってくださいまし。
今後ともご贔屓にどうぞ(笑)





2006⁄11⁄22(Wed) 16:15   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
遅いのも悪いことじゃない。


図書館で借りてきた理系の本を読み始めて、
読書スピードが、哀しいほどに
がくっと落ちた。

借りた本の中で一番読みやすそうな本を読んでいても
進化しすぎた脳  中高生と語る「大脳生理学」の最前線 進化しすぎた脳 中高生と語る「大脳生理学」の最前線
池谷 裕二 (2004/10/23)
朝日出版社

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作中、池谷さんが学生に語りかける
「これ、分かるかな?」
なんて言葉が空虚に感じられるぐらい
理解するのに時間がかかった。

やっぱり理系の中高生より
アタマ悪いんだ…
と途方にくれつつ

途中で書いてあった
「理解するのに時間がかかるのは
決して悪いことじゃない」
という慰め言葉に一筋の救いを感じたりしつつ(※後述)
1冊読むのに丸1日以上かかってしまった。


※脳の汎化作用の話です。
人間の脳では、記憶はほかの動物に例を見ないぐらい
曖昧でいい加減だが、それが人間の臨機応変な
適応力の源になっている、という話。

あいまい性を確保するためには、
学習のスピードがあまりにも速いと、特徴を抽出できない。
学習のスピードが速いと、
例えば、ある人の正面を向いた姿だけをその人だと記憶すると
横顔を見たときに、それがその人だと認識できないことになる。
だから、類推できるためには、ゆっくり学習する、つまり
一旦記憶を保留することが必要。

学習スピードが速いということは、
表面に見えている、目に見えたものだけに振り回されてしまって、
その奥にあるものが見えなくなる。
 
だから、勉強していて、なかなか覚えられないと
苦労することがあるとすれば、
それはこの脳の作用の裏返しであって仕方がない。
ものごとの裏にひそんでいるルールを
確実に抽出して学習するためには、
学習スピードが遅いこと、繰り返し勉強することが必要だ
というお話。

(『進化しすぎた脳 第三章 人間は曖昧な記憶しか持てない より
P211〜212の概要』)



そんなわけで、言葉は分かるが理解できない、
というのは、結構なストレスである。
(付記 でも念のため、内容は凄く面白かったです)

ああ、すらすら読める本が読みたい…

と思いつつ
とりあえず新宿のロフトには見あたらなかった
超整理手帳の2007年週間リフィルを買いに紀伊国屋に入る。

平積みの文庫本をこんなに懐かしく感じたのは
久しぶりである。

深き心の底から、という
小川洋子さんのエッセイを手に取る。
節約節約…
という深き心の声(?)を聞きながら立読み。

人によく声をかけられる、というくだりを読んで
親近感を覚える。

私もよく人に声をかけられるのだ。
特に中高齢の方に道を尋ねられる。
殆ど無愛想な顔をしているが、
その時の表情によっては
尋ねたら何でも答えそうなお人よしに見えるのだろう。
むかし介護業をしていた頃は、これでも
天使の笑顔、、、と言われたのだ(爆)

コールセンターでクレーム対応していたときも
知らない人に色んなことを言われたけれど、
小川さんほど深い台詞を投げかけられたことはない。
というか、いちいち気にしていたら
仕事をしていられないのだ。
流さずに受け止めるかどうか。
そこが作家になれるかの分岐点なのだろう。

そんなこんなで、
小川さんの本を買って、
帰りがてら、途中まで、すらすら読む。
理系本遅読(造語)によるストレス解消。
ああすっきり。
と思っていたら、次第にすらすら読めない内容に
差し掛かってきた。
そんなところで、最寄り駅に着く。

紀伊国屋の向かいにあるツタヤで
これでもか、というほどある
モーツァルトCDの中から、目的物を探し出して購入。
やっと「ジュピター」のお目当て部分を聞くことができた。







2006⁄11⁄15(Wed) 21:16   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる。


最近、机とベッド回りに本の山が出来てきた。
そろそろ倒れそうである。

毎日「掃除」と思っているのだが
気がつくと新たな本が増えて
一日が終わっている。

喝入れのために、
鍵山秀三郎氏の
「ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる」
を買ってきた。

「凡事徹底」を初めて読んで、
感銘を受けて、はや数年。
ごたいそうな理屈を振りかざしては
手元の「継続」を投げてしまいがち。

今一度、精神の地固めを。
掃除をすれば心が磨かれる。
掃除をすれば、気づきが多くなる。
掃除をすれば、人生に感動が増える。

惜しくて止められなくなるぐらい、
掃除を続けよう。

さあ、まずは一つ、ゴミを拾うところから。
ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる―心を洗い、心を磨く生き方 ひとつ拾えば、ひとつだけきれいになる―心を洗い、心を磨く生き方
鍵山 秀三郎 (2006/06)
PHP研究所

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2006⁄11⁄09(Thu) 21:11   読書 | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top

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