mixiのコミュに紹介されていた
二松学舎大学人文学会
(うーん、微妙な集まり、、)
での中沢新一先生の講演を聞いてきた。
学生はあまり関心がないのか
二松学舎のホールは空いていたので、
いつものように、前から二番目の右側に陣取った。
前の方にいる人の多くは学校関係者か
中沢ファンの一般人である模様。
私はというと、
中沢さんが一人で話すのを聞くのは初めてだし
実は本も結構難しくて
『アースダイバー』以外は
最後まで読みきっていない(スミマセン、、笑)
以前に対談を聞いて、
面白いひとだなあと思ってはいたのだけれど、
とりあえず話を聞いてみて、
前に買った本を再読する気になればいいな、
程度の軽い気持ちで行った。
お話を聞き始めると、
やっぱり中沢さんというひとは凄い人で。
興奮してノートを取りまくった。
内容は、
折口信夫の言うところの
「まれびと」を通しての論で、
詩的、文学的言語の本質は何かという
話だった。
法律で使われる言葉も
文学で使われる言葉も
同じ「言葉」でありながら、
大きな違いがある。
法律に代表されるようなものに使われる言葉は
不要なものを排除し、社会を均質化、安定化し、
社会(今ここにある現世)の中で
コミニュケーションを円滑にするためにある言葉。
文学や詩の言葉は、
人間社会の外部(死者の世界、現世の周りを取り巻くドリームタイム、ほか、、)からの異質なものを運んでくる言葉、
すなわち「まれびと」(宴を催し歌い、踊って迎え入れるべき、たまにしかこない客人)が運んでくる言葉であり、
その言葉によって、安定していた社会は混乱し、
動揺し、機能停止し、心のありようや
世界観を根底から覆してしまうもの。
文芸、文学の言葉や
詩的言語、メタファー(メトノミー)は、
二つの異なる意味言語を結合する。
例えば、詩的言語の原初ともいえる「なぞなぞ」でいえば、
(問) 「め」なのに見えないものは何?
(答) ジャガイモの「芽」
この場合、「目」と「芽」という一見
何のかかわりもないものを
「め」という音で結合する。
見えない芽、ジャガイモの目という
理解不能な、今までの社会に存在しない
新しい意味を創造することによって、
そこに驚きと喜びが生ずる。
そのように、
詩的言語、文学の言語とは、
二つの意味を結合することによって
新しい意味を生み出し、
強烈なる驚きと動揺を与え、
生の喜びを喚起するものである。
というようなところから、
「虹」という「喩」が文学において
どのような位置づけにあったかという
具体例を引かれ、
万葉集、詩経から井原西鶴に至り、
異界に通じる通路に、
富の源泉があるのではないかと
更に話は発展した。
わたしの拙い言葉を並べるよりは
読みかけだった著書に
再度あたるべきと思われるので
これでやめるけれど、
なにしろ凄まじく面白かった。
最近、自分の中の認知言語学への興味に
倦怠感をおぼえ始めていたところだけれど、
こういう観点から見直せば
「メタファー」にも
何か違った光を当てられるのかもしれず。
賢い人の話は聞くべきである。
世界が変わる。
というか、世界が広がり、世界が異界と繋がっていく。
そういえば、
少し前、詩人の吉増剛造さんの話に
折口信夫が出てきて、
読まなくちゃ、と思っていたところだった。
そんなわけで、
中沢さんや、そのほか私の尊敬する賢い人たちこそが
社会を動揺させ、世界観を揺り動かし、
生の輝きを教えてくれる異界との通路であり、
「まれびと」であるともいえるだろう。
二松学舎大学人文学会
(うーん、微妙な集まり、、)
での中沢新一先生の講演を聞いてきた。
学生はあまり関心がないのか
二松学舎のホールは空いていたので、
いつものように、前から二番目の右側に陣取った。
前の方にいる人の多くは学校関係者か
中沢ファンの一般人である模様。
私はというと、
中沢さんが一人で話すのを聞くのは初めてだし
実は本も結構難しくて
『アースダイバー』以外は
最後まで読みきっていない(スミマセン、、笑)
以前に対談を聞いて、
面白いひとだなあと思ってはいたのだけれど、
とりあえず話を聞いてみて、
前に買った本を再読する気になればいいな、
程度の軽い気持ちで行った。
お話を聞き始めると、
やっぱり中沢さんというひとは凄い人で。
興奮してノートを取りまくった。
内容は、
折口信夫の言うところの
「まれびと」を通しての論で、
詩的、文学的言語の本質は何かという
話だった。
法律で使われる言葉も
文学で使われる言葉も
同じ「言葉」でありながら、
大きな違いがある。
法律に代表されるようなものに使われる言葉は
不要なものを排除し、社会を均質化、安定化し、
社会(今ここにある現世)の中で
コミニュケーションを円滑にするためにある言葉。
文学や詩の言葉は、
人間社会の外部(死者の世界、現世の周りを取り巻くドリームタイム、ほか、、)からの異質なものを運んでくる言葉、
すなわち「まれびと」(宴を催し歌い、踊って迎え入れるべき、たまにしかこない客人)が運んでくる言葉であり、
その言葉によって、安定していた社会は混乱し、
動揺し、機能停止し、心のありようや
世界観を根底から覆してしまうもの。
文芸、文学の言葉や
詩的言語、メタファー(メトノミー)は、
二つの異なる意味言語を結合する。
例えば、詩的言語の原初ともいえる「なぞなぞ」でいえば、
(問) 「め」なのに見えないものは何?
(答) ジャガイモの「芽」
この場合、「目」と「芽」という一見
何のかかわりもないものを
「め」という音で結合する。
見えない芽、ジャガイモの目という
理解不能な、今までの社会に存在しない
新しい意味を創造することによって、
そこに驚きと喜びが生ずる。
そのように、
詩的言語、文学の言語とは、
二つの意味を結合することによって
新しい意味を生み出し、
強烈なる驚きと動揺を与え、
生の喜びを喚起するものである。
というようなところから、
「虹」という「喩」が文学において
どのような位置づけにあったかという
具体例を引かれ、
万葉集、詩経から井原西鶴に至り、
異界に通じる通路に、
富の源泉があるのではないかと
更に話は発展した。
わたしの拙い言葉を並べるよりは
読みかけだった著書に
再度あたるべきと思われるので
これでやめるけれど、
なにしろ凄まじく面白かった。
最近、自分の中の認知言語学への興味に
倦怠感をおぼえ始めていたところだけれど、
こういう観点から見直せば
「メタファー」にも
何か違った光を当てられるのかもしれず。
賢い人の話は聞くべきである。
世界が変わる。
というか、世界が広がり、世界が異界と繋がっていく。
そういえば、
少し前、詩人の吉増剛造さんの話に
折口信夫が出てきて、
読まなくちゃ、と思っていたところだった。
そんなわけで、
中沢さんや、そのほか私の尊敬する賢い人たちこそが
社会を動揺させ、世界観を揺り動かし、
生の輝きを教えてくれる異界との通路であり、
「まれびと」であるともいえるだろう。
今週も一週間が速かった。
いろんなことがあった、で
日記を済ませてしまうのは
本意ではないけれど、
あまり具体的に書くには適さない
もろもろがあった。
別に悪いことではない。
漸く、というべきか
仕事も忙しくなってきた。
職場は田町にある。
間近に東京タワーのある風景は
なかなか気に入っている。
若干通勤には遠いけれど、
おかげで朝、本を読んだり
英語を聞く習慣ができた。
夜、身体性の話を聞く。
きっと往復書簡に書かれるだろうから
掲載を楽しみにしておくことにする。
キアロスタミの
『オリーブの林を抜けて』は
爽やかなラストシーンに思わず
笑みがこぼれた。
それがやがて終わると分かっていても
信じること、
欺かれることを恐れないこと、
いま・ここにしかいられない自分に
没入すること。
深く感じて言葉にしたとしても、
実際の「運動」「行動」として
アウトプットされるに至るには
決意と訓練の反復しかない。
踏み出す歩幅は小さくとも、
心に炎を燃やし続けよう。
いろんなことがあった、で
日記を済ませてしまうのは
本意ではないけれど、
あまり具体的に書くには適さない
もろもろがあった。
別に悪いことではない。
漸く、というべきか
仕事も忙しくなってきた。
職場は田町にある。
間近に東京タワーのある風景は
なかなか気に入っている。
若干通勤には遠いけれど、
おかげで朝、本を読んだり
英語を聞く習慣ができた。
夜、身体性の話を聞く。
きっと往復書簡に書かれるだろうから
掲載を楽しみにしておくことにする。
キアロスタミの
『オリーブの林を抜けて』は
爽やかなラストシーンに思わず
笑みがこぼれた。
それがやがて終わると分かっていても
信じること、
欺かれることを恐れないこと、
いま・ここにしかいられない自分に
没入すること。
深く感じて言葉にしたとしても、
実際の「運動」「行動」として
アウトプットされるに至るには
決意と訓練の反復しかない。
踏み出す歩幅は小さくとも、
心に炎を燃やし続けよう。
夜、恵比寿で映画「ブリッジ」を見る。
ゴールデンゲートブリッジにカメラを常置して
自殺の瞬間を捉えたドキュメンタリー。
ブリッジ
http://the-bridge-movie.com/
恵比寿ガーデンシネマは
水曜、男女ともに入場料1000円である。
おそらくは、このおトク感のせいで
明らかに重い内容の映画なのに満席だった。
言うまでもないが、この映画は
元気な人だけ見たほうが良い。
間違っても落ち込んでいるときに
見てはいけない。
元気な自覚があったから行ったのだけれど、
見終わって、
色々な立場の人たちの色々な感情に共感してしまって
正直なところ、複雑である。
ところで、
日本でこういう映画を作ったら、
残された関係者が己の無理解無関心を悔恨するところに
力点を置くだろうと想像するが
作中では、予想以上に
「潮時だった」「本人の意思だから」
「理解できない」的な発言もあって、
これは風土の違いなのだろうかと
興味を惹いた。
ここで自殺の是非を論じるつもりはないが、
鳥が急降下するように橋から人が落ち、
水しぶきが渦となり
やがて静まりゆく水面を
直視するのは辛い。
生きていてほしい、と思う。
自殺を考えることと
死を考えることは
似ているようで違う。
自殺を考えることは、
苦痛から解放されることを求め、
死を見つめることは
限りある生を愛することに繋がるからだろう。
ゴールデンゲートブリッジにカメラを常置して
自殺の瞬間を捉えたドキュメンタリー。
ブリッジ
http://the-bridge-movie.com/
恵比寿ガーデンシネマは
水曜、男女ともに入場料1000円である。
おそらくは、このおトク感のせいで
明らかに重い内容の映画なのに満席だった。
言うまでもないが、この映画は
元気な人だけ見たほうが良い。
間違っても落ち込んでいるときに
見てはいけない。
元気な自覚があったから行ったのだけれど、
見終わって、
色々な立場の人たちの色々な感情に共感してしまって
正直なところ、複雑である。
ところで、
日本でこういう映画を作ったら、
残された関係者が己の無理解無関心を悔恨するところに
力点を置くだろうと想像するが
作中では、予想以上に
「潮時だった」「本人の意思だから」
「理解できない」的な発言もあって、
これは風土の違いなのだろうかと
興味を惹いた。
ここで自殺の是非を論じるつもりはないが、
鳥が急降下するように橋から人が落ち、
水しぶきが渦となり
やがて静まりゆく水面を
直視するのは辛い。
生きていてほしい、と思う。
自殺を考えることと
死を考えることは
似ているようで違う。
自殺を考えることは、
苦痛から解放されることを求め、
死を見つめることは
限りある生を愛することに繋がるからだろう。
先日テレビで見て以来
気になっていた
田沼靖一『死の起源 遺伝子からの問いかけ』
を読む。面白い。
今更「メメント・モリ」というまでもない。
美術、音楽、その他あらゆる思索の場において、
死は生を考える前提条件として
厳然と存在する。
死は生の対極にあるのではなく、
表裏をなすものだ、
と(意識的に)初めて認識させられたのは
確か国語の試験問題か何かにでも載っていた
志賀直哉の『城之崎にて』で、
文学としてどうか、という評価はさておいて
鮮烈な印象を持った。
それから歳月は流れた今、
哲学や文学ではなく、
DNAから死を見つめる人がいるということを知ったのも
これまた何かの因縁だろう。
先日のエントリーでも少し触れたが、
大腸菌などの一倍体細胞生物には
大雑把に言えば「死」はない。
二倍体細胞生物において初めて、
有性生殖によって
優れた細胞を次代に遺し、
そうでないものを自ら死なせるプログラムを内蔵した。
それによって、進化が可能となった。
祖先たちが個体の死によって
遺伝子を進化させる道を選んだことによって、
いま私はここにある。
悠久の過去から綿々と受け継がれてきた
メッセージを受け取る。
宇宙の中の一粒の命であること。
谷川俊太郎さんの講演で聞いた
「宇宙内存在」という言葉を思い出す。
★
以下、『死の起源 遺伝子からの問いかけ』田沼靖一著 より引用
「大きな視野から見ると、私たちは同じ場所に住んでいるわけで、個体がきちんと消去されなければ、新たな個体は生まれないし、その集団としての種も社会も生まれないことになる。つまり、死の階層性というようなものが、細胞から個体、個体から社会までつらぬかれている。そこを遺伝子の組み合わせを変えながら、アイデンティティーをもった不ニのゲノムが個体として移り住んでいる。これが、この世界である。」
「この地球上に生起する片々たる生物の死に、何ほどの意味があるのだろうか。矮小にみえる死であっても、細胞死から死の遺伝子のレベルまで掘り下げていくと、そこには限りない大宇宙(マクロコスモス)の大きく循環する姿が見えてくる。このマクロコスモスのなかに、ほんのわずかな偶然として、ヒトは生まれてきた。それは、ほかの生き物においても同じことである。しかも、人間というミクロコスモスのなかには、必然としての死が、遺伝子としてはっきりとプログラムされている。「アポトーシス」という再生系の細胞にそなわった細胞死と、「アポビオーシス」という非再生系の細胞に付与された細胞死によって、どちらからでも個体は死ぬことができるようにプログラムされている。この 死の遺伝子によって、遺伝子は新たな生命体として生を更新していることを思えば、元来生も死もないことが悟られる。
たえることなく流れ行く河にたとえればアポトーシスは流れに浮かぶ’うたかた’のようなもので、その深部には’底流’としてのアポビオーシスが時を刻んでいる。再生系の細胞は、アポトーシスにより個体の循環に戻ってゆく。新たな細胞の新生のために。そして非再生系の細胞のアポビオーシスにより、個体は自然の循環に戻る。新たな個体の生存のために。この次元の異なる二つの細胞死により、個体はその生命を維持しているとともに、必ず消滅するように保証されている。二度と同じものをくり返さない永遠性のなかから、新しいものが創られてくる。」
「遺伝子の側からみると、そこには死と生の宇宙的な一体感が感じられる。この大宇宙で失われるものは何一つない。つねに変成がくり返されているだけなのである。しかし、ゲノムのなかでは遺伝子の組み合わせは変化しているが、過去の記憶はそこに受け継がれている。現存する生物はすべて、遺伝子によって悠久の昔の生命とつながっているのである。この見えない生命の糸(DNA)を共有している有性生殖をする生命体はすべて、回帰し得ない環をえがきながら、性と死によって変化している。このダイナミックな動きそのものが、生命の摂理といえるだろう」
「人は死んでも、その人の思いはいつも心のなかに生き続けている。人間だけではなく、犬や猫、鳥や金魚も、植物もすべての死においてそうであろう。無数の死がさまざまな形で生きている。そして、人間だけがその万物の死を自分のなかに生かすことができる生物なのだろう。そのことはとりもなおさず、人間は死によって、生の在り様がとわれることになることを意味している。しかし、、死それ自身は本来、無に還るという以外には何の意味ももたないだろう。しはつねに生の前提として捉えるべきものである。つまり、「死」は、人間をはじめてとして、「生」ある物は必ず死ぬものであることを自覚するためにある。そして、それによって、「自分とは何か」を問うことができるようになっているのである。」
(『死の起源 遺伝子からの問いかけ』田沼靖一著 より引用)
気になっていた
田沼靖一『死の起源 遺伝子からの問いかけ』
を読む。面白い。
今更「メメント・モリ」というまでもない。
美術、音楽、その他あらゆる思索の場において、
死は生を考える前提条件として
厳然と存在する。
死は生の対極にあるのではなく、
表裏をなすものだ、
と(意識的に)初めて認識させられたのは
確か国語の試験問題か何かにでも載っていた
志賀直哉の『城之崎にて』で、
文学としてどうか、という評価はさておいて
鮮烈な印象を持った。
それから歳月は流れた今、
哲学や文学ではなく、
DNAから死を見つめる人がいるということを知ったのも
これまた何かの因縁だろう。
先日のエントリーでも少し触れたが、
大腸菌などの一倍体細胞生物には
大雑把に言えば「死」はない。
二倍体細胞生物において初めて、
有性生殖によって
優れた細胞を次代に遺し、
そうでないものを自ら死なせるプログラムを内蔵した。
それによって、進化が可能となった。
祖先たちが個体の死によって
遺伝子を進化させる道を選んだことによって、
いま私はここにある。
悠久の過去から綿々と受け継がれてきた
メッセージを受け取る。
宇宙の中の一粒の命であること。
谷川俊太郎さんの講演で聞いた
「宇宙内存在」という言葉を思い出す。
★
以下、『死の起源 遺伝子からの問いかけ』田沼靖一著 より引用
「大きな視野から見ると、私たちは同じ場所に住んでいるわけで、個体がきちんと消去されなければ、新たな個体は生まれないし、その集団としての種も社会も生まれないことになる。つまり、死の階層性というようなものが、細胞から個体、個体から社会までつらぬかれている。そこを遺伝子の組み合わせを変えながら、アイデンティティーをもった不ニのゲノムが個体として移り住んでいる。これが、この世界である。」
「この地球上に生起する片々たる生物の死に、何ほどの意味があるのだろうか。矮小にみえる死であっても、細胞死から死の遺伝子のレベルまで掘り下げていくと、そこには限りない大宇宙(マクロコスモス)の大きく循環する姿が見えてくる。このマクロコスモスのなかに、ほんのわずかな偶然として、ヒトは生まれてきた。それは、ほかの生き物においても同じことである。しかも、人間というミクロコスモスのなかには、必然としての死が、遺伝子としてはっきりとプログラムされている。「アポトーシス」という再生系の細胞にそなわった細胞死と、「アポビオーシス」という非再生系の細胞に付与された細胞死によって、どちらからでも個体は死ぬことができるようにプログラムされている。この 死の遺伝子によって、遺伝子は新たな生命体として生を更新していることを思えば、元来生も死もないことが悟られる。
たえることなく流れ行く河にたとえればアポトーシスは流れに浮かぶ’うたかた’のようなもので、その深部には’底流’としてのアポビオーシスが時を刻んでいる。再生系の細胞は、アポトーシスにより個体の循環に戻ってゆく。新たな細胞の新生のために。そして非再生系の細胞のアポビオーシスにより、個体は自然の循環に戻る。新たな個体の生存のために。この次元の異なる二つの細胞死により、個体はその生命を維持しているとともに、必ず消滅するように保証されている。二度と同じものをくり返さない永遠性のなかから、新しいものが創られてくる。」
「遺伝子の側からみると、そこには死と生の宇宙的な一体感が感じられる。この大宇宙で失われるものは何一つない。つねに変成がくり返されているだけなのである。しかし、ゲノムのなかでは遺伝子の組み合わせは変化しているが、過去の記憶はそこに受け継がれている。現存する生物はすべて、遺伝子によって悠久の昔の生命とつながっているのである。この見えない生命の糸(DNA)を共有している有性生殖をする生命体はすべて、回帰し得ない環をえがきながら、性と死によって変化している。このダイナミックな動きそのものが、生命の摂理といえるだろう」
「人は死んでも、その人の思いはいつも心のなかに生き続けている。人間だけではなく、犬や猫、鳥や金魚も、植物もすべての死においてそうであろう。無数の死がさまざまな形で生きている。そして、人間だけがその万物の死を自分のなかに生かすことができる生物なのだろう。そのことはとりもなおさず、人間は死によって、生の在り様がとわれることになることを意味している。しかし、、死それ自身は本来、無に還るという以外には何の意味ももたないだろう。しはつねに生の前提として捉えるべきものである。つまり、「死」は、人間をはじめてとして、「生」ある物は必ず死ぬものであることを自覚するためにある。そして、それによって、「自分とは何か」を問うことができるようになっているのである。」
(『死の起源 遺伝子からの問いかけ』田沼靖一著 より引用)
私の「尊敬」とか「憧れ」の対象は
年上の男性が圧倒的に多い。
最近になって、
(遅まきながら、というべきか)
社会で何らかの評価を得ている人物の中で
「年上の女性」
である、という要因だけで、
その生きざまに
興味関心を持つことが多くなった。
自分の中に、
目指すべき「女性」像が
必要な時機にさしかかったのかもしれない。
そんなわけで、気になりながらも
延ばし延ばしにしてきた
マルレーネ・デュマス
「ブロークン・ホワイト」展に行く。
事前知識は
展示の公式サイトだけである。
人物画、それも顔を描いたものが殆ど。
どれも眼、鼻、口は
はっきりしているが、輪郭は明瞭ではない。
女性の顔の画が
ずらりと並んだ「女」の連作。
自他を隔て、
個性を表象するともいえる
「顔」が溶けてゆき
個の中の多面体、キメラとでもいうべき
感情の動きだけが強く表れてくる。
参考:キメラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%A9
3階から降りて
1階フロア入口に記された言葉を見た。
「美術の役割はいつも同じ
あなたに自分の名前を忘れさせること」
M・デュマス
個別を執拗に追うことによって
普遍に至ろうとするひとの面影を垣間見た。
★
帰路、区立図書館に寄って
少し前のNatureを借りる。
思い返せば昨年の冬、
カルチャーセンターに受講を申し込んだとき、
「ネイチャーやサイエンスの論文を
英語で読む講座ですから」
と電話口の女性に言われて
冷や汗が流れたのも
今となっては微笑ましい思い出である。
昔は、
やるとなったら身も心も
24時間捧げなければ
気が済まなかった。
好きなら仕事にしなければならないと
信じていた。
でも、人生、
そういうわけにもいかないのだと
ある時悟って絶望し、
そして更にしばらくして、
何も仕事にしなくても
好きなことは続けられる、と開き直って
随分と楽になったし、
楽しくもなった。
具体的な一例を挙げれば、
大学や大学院に行かずとも
学問はできる、ということだ。
『フューチャリスト宣言』
にも影響を受けた。
インターネットが
学問を志す人間に門戸を広げてくれた。
茂木先生はもとより、
梅田望夫さんもまた私の憧れの人である。
谷川俊太郎の
『二十億光年の孤独』所収の
「祈り」という詩の中に
こんな一節があった。
「そして
一つの小さな祈りは
暗くて巨きな時の中に
かすかながらもしっかり燃え続けようと
今 炎を上げる」
人は変わる。
願わくば進化でありたい。
命を輝かせるために、
時の流れや
過去の自分と格闘しながら、
祈るように、そう思っている。
年上の男性が圧倒的に多い。
最近になって、
(遅まきながら、というべきか)
社会で何らかの評価を得ている人物の中で
「年上の女性」
である、という要因だけで、
その生きざまに
興味関心を持つことが多くなった。
自分の中に、
目指すべき「女性」像が
必要な時機にさしかかったのかもしれない。
そんなわけで、気になりながらも
延ばし延ばしにしてきた
マルレーネ・デュマス
「ブロークン・ホワイト」展に行く。
事前知識は
展示の公式サイトだけである。
人物画、それも顔を描いたものが殆ど。
どれも眼、鼻、口は
はっきりしているが、輪郭は明瞭ではない。
女性の顔の画が
ずらりと並んだ「女」の連作。
自他を隔て、
個性を表象するともいえる
「顔」が溶けてゆき
個の中の多面体、キメラとでもいうべき
感情の動きだけが強く表れてくる。
参考:キメラ
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AD%E3%83%A1%E3%83%A9
3階から降りて
1階フロア入口に記された言葉を見た。
「美術の役割はいつも同じ
あなたに自分の名前を忘れさせること」
M・デュマス
個別を執拗に追うことによって
普遍に至ろうとするひとの面影を垣間見た。
★
帰路、区立図書館に寄って
少し前のNatureを借りる。
思い返せば昨年の冬、
カルチャーセンターに受講を申し込んだとき、
「ネイチャーやサイエンスの論文を
英語で読む講座ですから」
と電話口の女性に言われて
冷や汗が流れたのも
今となっては微笑ましい思い出である。
昔は、
やるとなったら身も心も
24時間捧げなければ
気が済まなかった。
好きなら仕事にしなければならないと
信じていた。
でも、人生、
そういうわけにもいかないのだと
ある時悟って絶望し、
そして更にしばらくして、
何も仕事にしなくても
好きなことは続けられる、と開き直って
随分と楽になったし、
楽しくもなった。
具体的な一例を挙げれば、
大学や大学院に行かずとも
学問はできる、ということだ。
『フューチャリスト宣言』
にも影響を受けた。
インターネットが
学問を志す人間に門戸を広げてくれた。
茂木先生はもとより、
梅田望夫さんもまた私の憧れの人である。
谷川俊太郎の
『二十億光年の孤独』所収の
「祈り」という詩の中に
こんな一節があった。
「そして
一つの小さな祈りは
暗くて巨きな時の中に
かすかながらもしっかり燃え続けようと
今 炎を上げる」
人は変わる。
願わくば進化でありたい。
命を輝かせるために、
時の流れや
過去の自分と格闘しながら、
祈るように、そう思っている。
午後から早稲田に行く。
小野記念講堂で、
重松清さんと松田哲夫さんの講演、対談を聞く。
文化構想学部新設を記念しての
講演であるせいで、
構想、編集というような演題だった。
重松さんは大学生向けということもあってか
噛み砕いた分かりやすい話をされた。
編集とは、
業界の特定の職業を指すというよりも
日常でなされていることであって、
人生において「編集」は必要である。
優先順位を決める。
何を捨て、残すかを決める。
配置、立ち位置、視点を決める。
それらはすべて、
日常において重要なこと。
ものごとを見るには
多面的な、ときには矛盾する視点が存在することを認めた上で、
何が「自分にとって面白いか」を見つけることが大切だ。
既存のものに対して、半分その面白さを認め、
半分では反発してみること。
もし自分が作るならこうしたほうが面白い、
という視点を常に持つことが大事ではないかと。
編集者という作り手でありながら、
「一読者として読みたいもの」を
作り続けて成功してこられたのが松田さん。
路上観察学会の話から、
面白いと思ったことを
仲間と出会い、共に続けてきたことが
仕事に繋がったと体験を通して話されて、
こちらも楽しいお話だった。
★
夜、吉増剛造さんのお話を初めて伺う。
自作映像作品を披露されながらの語り。
光の松葉杖、時の宝石箱、光の棘、、、
詩人の発する言葉に圧倒される。
映像は折口信夫さんの写真を連れて
その文章の書かれた現場、
梅雨時の大阪を映したものであったり、
遠い異国の旅先だったりと様々だが、
画面の中の吉増さんのつぶやきを受けて
いま教室に実在する吉増さんが話を重ねる、
というような場面が、
掛け合い漫才ではないけれど
一人二役のような、妙なおかしみがあった。
画面に振り子のように揺れる貝殻につられ、
時の、光の、空気の軌跡、
ゆらぎ、よどみ、が見えるかのような画面に
ただ魅せられて、
ぼんやりと乳白色の世界を漂った。
こうしてまた一枚、一枚と
記憶の薄い皮膜が重ねられ
今日という日が終わろうとしている。
小野記念講堂で、
重松清さんと松田哲夫さんの講演、対談を聞く。
文化構想学部新設を記念しての
講演であるせいで、
構想、編集というような演題だった。
重松さんは大学生向けということもあってか
噛み砕いた分かりやすい話をされた。
編集とは、
業界の特定の職業を指すというよりも
日常でなされていることであって、
人生において「編集」は必要である。
優先順位を決める。
何を捨て、残すかを決める。
配置、立ち位置、視点を決める。
それらはすべて、
日常において重要なこと。
ものごとを見るには
多面的な、ときには矛盾する視点が存在することを認めた上で、
何が「自分にとって面白いか」を見つけることが大切だ。
既存のものに対して、半分その面白さを認め、
半分では反発してみること。
もし自分が作るならこうしたほうが面白い、
という視点を常に持つことが大事ではないかと。
編集者という作り手でありながら、
「一読者として読みたいもの」を
作り続けて成功してこられたのが松田さん。
路上観察学会の話から、
面白いと思ったことを
仲間と出会い、共に続けてきたことが
仕事に繋がったと体験を通して話されて、
こちらも楽しいお話だった。
★
夜、吉増剛造さんのお話を初めて伺う。
自作映像作品を披露されながらの語り。
光の松葉杖、時の宝石箱、光の棘、、、
詩人の発する言葉に圧倒される。
映像は折口信夫さんの写真を連れて
その文章の書かれた現場、
梅雨時の大阪を映したものであったり、
遠い異国の旅先だったりと様々だが、
画面の中の吉増さんのつぶやきを受けて
いま教室に実在する吉増さんが話を重ねる、
というような場面が、
掛け合い漫才ではないけれど
一人二役のような、妙なおかしみがあった。
画面に振り子のように揺れる貝殻につられ、
時の、光の、空気の軌跡、
ゆらぎ、よどみ、が見えるかのような画面に
ただ魅せられて、
ぼんやりと乳白色の世界を漂った。
こうしてまた一枚、一枚と
記憶の薄い皮膜が重ねられ
今日という日が終わろうとしている。
2007年5月27日受験分のTOEICの結果が来た。
820/990点。
想像より良かった。
一緒に勉強している人もいないし
褒めてくれる人もいないから
せめてもの慰めに、ここに書いておく。
こういうのが独学の寂しいところ(笑)
5年前に受けた時は670点で
その後たいして勉強した覚えはないけれど、、、
難易度は以前と同等と書かれていたが、
試験改訂後、簡単になったのでは、
と思いたくなるほどの肩透かし。
まあいいのだ。
820点と書かれたスコアさえあれば、
履歴書に書ける。
つまり、それだけのこと。
茂木先生の講義で
ネイチャーを読む訓練をしたのと
英語講演を聴いたり
洋画の字幕を見ないようにしたり
英語CDの流し聞きをしていたのが
多少は功を奏したんだろうか。
しかし試験前日、
江村さんの最後のコンサートに行かずに
詰め込みボキャビルした甲斐があったとは、
とても言えそうもない。
820/990点。
想像より良かった。
一緒に勉強している人もいないし
褒めてくれる人もいないから
せめてもの慰めに、ここに書いておく。
こういうのが独学の寂しいところ(笑)
5年前に受けた時は670点で
その後たいして勉強した覚えはないけれど、、、
難易度は以前と同等と書かれていたが、
試験改訂後、簡単になったのでは、
と思いたくなるほどの肩透かし。
まあいいのだ。
820点と書かれたスコアさえあれば、
履歴書に書ける。
つまり、それだけのこと。
茂木先生の講義で
ネイチャーを読む訓練をしたのと
英語講演を聴いたり
洋画の字幕を見ないようにしたり
英語CDの流し聞きをしていたのが
多少は功を奏したんだろうか。
しかし試験前日、
江村さんの最後のコンサートに行かずに
詰め込みボキャビルした甲斐があったとは、
とても言えそうもない。
東京国立近代美術館 アンリ・カルティエ=ブレッソン 知られざる全貌
http://www.momat.go.jp/Honkan/Henri_Cartier-Bresson/index.html#event
中沢新一(二松学舎大学 20070630)
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/news/jinbungakkai95.htm
茂木健一郎(朝日カルチャーセンター 20070706〜)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0301.html
中沢新一(青山ブックセンター 20070707)
http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200707/_0777.html
脳と想像力 瀬名秀明ほか(日本科学未来館 20070714)
http://www.noukagaku10.jp/program/session2.html
ル・コルビジュエ(森美術館)
http://www.mori.art.museum/jp/index.html
フランク・ゲーリー(Bunkamura)
http://www.bunkamura.co.jp/shokai/cinema/now/index.html
(趣味がマイナーなことはよく自覚しております、、、
これは殆ど自分の予定の確認を目的としたエントリーです)
http://www.momat.go.jp/Honkan/Henri_Cartier-Bresson/index.html#event
中沢新一(二松学舎大学 20070630)
http://www.nishogakusha-u.ac.jp/news/jinbungakkai95.htm
茂木健一郎(朝日カルチャーセンター 20070706〜)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0301.html
中沢新一(青山ブックセンター 20070707)
http://www.aoyamabc.co.jp/10/10_200707/_0777.html
脳と想像力 瀬名秀明ほか(日本科学未来館 20070714)
http://www.noukagaku10.jp/program/session2.html
ル・コルビジュエ(森美術館)
http://www.mori.art.museum/jp/index.html
フランク・ゲーリー(Bunkamura)
http://www.bunkamura.co.jp/shokai/cinema/now/index.html
(趣味がマイナーなことはよく自覚しております、、、
これは殆ど自分の予定の確認を目的としたエントリーです)
NHKの「爆笑問題のニッポンの教養」が面白い。
爆笑問題が研究者などと話をする30分番組。
今日は生化学者の田沼靖一さんの話だった。
人間には60兆の細胞があって、
3000億ほどが毎日死んでいる。
それと引き換えに細胞が分裂し、生まれている。
新たに生まれるために細胞は死ぬ。
例えばがん細胞というのは、死ねなくなった細胞。
増殖しつづけ、人間を死に至らしめる。
長く生きられる細胞でも
およそ100年しか生きられない。
それは人間のDNAの中にそのような仕掛けが
セットされているからだという。
何十億年という昔、
1組のDNAしかない大腸菌のようなものには
死はなかった。
10億年前ほどになって
性が分化し
男女2組分のDNAを受け継ぐ生物(?)ができてはじめて
死が生まれたのだそうだ。
太田光のことはよく知らないが、
ときどきあれっと思うようなことを言う。
胎児が誕生するというのは
別の視点からすると一つの死じゃないのか。
胎内でこそ生きていたものが
産み落とされたのは死じゃないのか、
胎内にはずっと居ることはできないから、
誕生させられる。
それはある種の解放ではないのか、
というようなことを言った。
死とは何だろう。
細胞の死ぬ瞬間は何かが爆発するように
激しく凄絶だった。
先生はそれを見つめていると、
あたかも空にある星が爆発する光景に
重なって見えることがあると語っていた。
ミクロのデザインは思わぬところで
マクロなデザインに繋がっている。
死がなかったら、
人間の文化、芸術、
そんなものは生まれなかったのではないか、
とも先生は言っていた。
最近読んだカレル・チャペックの
『ロボット』という本を思い出す。
色々なテーマを含んだ面白い戯曲だったが
人はなぜ死ぬか、も
その中の一つであるに違いない。
人間が生まれながらにして与えられている
死というものは
性を起源としているということが
何かを示唆しているようにも思える、
けれど、まだよく分からない。
この先生の本は一度読んでみたいと思う。
参考
http://www.hitachi-hitec.com/about/library/sapiens/011/pre3.html
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/9703/apobiosis.html?PHPSESSID=8df12bea2ae818a52df8d7322ba854e0
http://www.healthist.jp/news/159_01/01_01.html
爆笑問題が研究者などと話をする30分番組。
今日は生化学者の田沼靖一さんの話だった。
人間には60兆の細胞があって、
3000億ほどが毎日死んでいる。
それと引き換えに細胞が分裂し、生まれている。
新たに生まれるために細胞は死ぬ。
例えばがん細胞というのは、死ねなくなった細胞。
増殖しつづけ、人間を死に至らしめる。
長く生きられる細胞でも
およそ100年しか生きられない。
それは人間のDNAの中にそのような仕掛けが
セットされているからだという。
何十億年という昔、
1組のDNAしかない大腸菌のようなものには
死はなかった。
10億年前ほどになって
性が分化し
男女2組分のDNAを受け継ぐ生物(?)ができてはじめて
死が生まれたのだそうだ。
太田光のことはよく知らないが、
ときどきあれっと思うようなことを言う。
胎児が誕生するというのは
別の視点からすると一つの死じゃないのか。
胎内でこそ生きていたものが
産み落とされたのは死じゃないのか、
胎内にはずっと居ることはできないから、
誕生させられる。
それはある種の解放ではないのか、
というようなことを言った。
死とは何だろう。
細胞の死ぬ瞬間は何かが爆発するように
激しく凄絶だった。
先生はそれを見つめていると、
あたかも空にある星が爆発する光景に
重なって見えることがあると語っていた。
ミクロのデザインは思わぬところで
マクロなデザインに繋がっている。
死がなかったら、
人間の文化、芸術、
そんなものは生まれなかったのではないか、
とも先生は言っていた。
最近読んだカレル・チャペックの
『ロボット』という本を思い出す。
色々なテーマを含んだ面白い戯曲だったが
人はなぜ死ぬか、も
その中の一つであるに違いない。
人間が生まれながらにして与えられている
死というものは
性を起源としているということが
何かを示唆しているようにも思える、
けれど、まだよく分からない。
この先生の本は一度読んでみたいと思う。
参考
http://www.hitachi-hitec.com/about/library/sapiens/011/pre3.html
http://www.nikkei-bookdirect.com/science/page/magazine/9703/apobiosis.html?PHPSESSID=8df12bea2ae818a52df8d7322ba854e0
http://www.healthist.jp/news/159_01/01_01.html
今回の職場は研修体制がすごい。
来月は、
博士号を持ってる研究者が
たまたま来日するのにあわせて
講義をしてくれるらしい。
感激(笑)
もちろん正客は他のひとで
私はお相伴だけれど、
業務中に(つまり有給で)
こんな話(まあ主に内臓と薬のはなし)を聞ける機会は
普通に生きていたら絶対にない。
資料のコピーを頼まれたのを良いことに
予習に励む。
ついでに
英語の専門用語も覚えないといけない。
しかしまあ
MACEだのIRB、GCPだと
1ヶ月前は全く意味不明だった略語には
だいぶ慣れてきた。
これから数年、目指すべき
仕事の方向性は定まった。
ここまできたら、とことんやる。
来月は、
博士号を持ってる研究者が
たまたま来日するのにあわせて
講義をしてくれるらしい。
感激(笑)
もちろん正客は他のひとで
私はお相伴だけれど、
業務中に(つまり有給で)
こんな話(まあ主に内臓と薬のはなし)を聞ける機会は
普通に生きていたら絶対にない。
資料のコピーを頼まれたのを良いことに
予習に励む。
ついでに
英語の専門用語も覚えないといけない。
しかしまあ
MACEだのIRB、GCPだと
1ヶ月前は全く意味不明だった略語には
だいぶ慣れてきた。
これから数年、目指すべき
仕事の方向性は定まった。
ここまできたら、とことんやる。
友人と夕食しながら、
佐藤雅彦の説明をしていた。
百聞一見にしかず、と
家に帰ってメールでURLを送って、
ついでに見ていたら、
楽しい楽しい。
10本アニメ
http://www.youtube.com/watch?v=iRuzCjIgEe4&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=Qj0XzA7juvI&mode=related&search=
ピタゴラ装置
http://www.youtube.com/watch?v=vpzmRZOhAn4&mode=related&search=
普段あまり飲まないのだが、
空腹にお酒が入ったせいか、
私にしては、色んなことを
よくしゃべった。
(ような気がする)
無駄話につきあってくれて
ありがとうね。
佐藤雅彦の説明をしていた。
百聞一見にしかず、と
家に帰ってメールでURLを送って、
ついでに見ていたら、
楽しい楽しい。
10本アニメ
http://www.youtube.com/watch?v=iRuzCjIgEe4&mode=related&search=
http://www.youtube.com/watch?v=Qj0XzA7juvI&mode=related&search=
ピタゴラ装置
http://www.youtube.com/watch?v=vpzmRZOhAn4&mode=related&search=
普段あまり飲まないのだが、
空腹にお酒が入ったせいか、
私にしては、色んなことを
よくしゃべった。
(ような気がする)
無駄話につきあってくれて
ありがとうね。
日曜日の話。
父の日だったので
実家に顔を出して
昼ごはんを一緒に食べた。
猫の「ろん」が死んだみたいに眠っていた。
最近は日中もあまり起きてこないらしい。
ね、起きてよ、とつついたら
やっと眼をあけて
ごろにゃん、と鳴いて
(声がかすれて本当にそんなふうに鳴く)
久しぶりだね、と近づいてきた。
夏を越せるだろうか。
さすがに高齢だし
双子のモクは去年亡くなった。
父は父で果物が欠乏している私に食べさせようと
キウイを買いに行って、
支払いを終えた後
ちょうど考え事をしていたら
スーパーの買い物かごを
家まで持って返ってきてしまったという。
玄関に緑色の買い物かごが置いてある。
こんなことは初めてだと皆で笑う。
父も母も、もうトシである。
いつかは実家に帰らなければならない。
(一応長女で一人っ子だからね)
一人暮らしは
その日までの執行猶予つき家出、
みたいなものだ。
夕方、下北沢に行くついでもあるしと
世田谷美術館に行った。
用賀から歩く途中の
お気に入りのコーヒー屋さんに
(コーヒーが気に入っているのではなく
内装が良いのだが)
寄りたかったけれど、
経費節約の折からガマンした。
骨董なんてものは、
お金を払って見ようと思ったのは初めてで
白洲さんの生のお話が聞けない代わりに
せめて展示だけでも見に行こう
というのが正直なところだ。
絵のついていないものが好きだ。
(絵つきで好きなのもあるけれど)
端正な中にちょっとどこか崩れていて
どれもみなそれぞれに
愛嬌ある面白い顔つきをしていた。
ガラスケースの中にあっては
分からない、と白洲さんがおっしゃるのも
なるほどで、
触れたらどんなに楽しいだろう。
焼き物の手触り、くちびるの感触、
会場で見たときは、
そんなことまで考えなかった。
芸大でのお話の録音を聞いたあとで
記憶をたどって
未知なる感触をイメージしてみる。
じっと眺めていたかったが
実家のケーブルテレビで
つい刑事コロンボを見て長居してしまったせいで
時間がおしていて
ぐるりと一巡して帰る。
公園は広くて気持ちよい。
いつか
ビニールの敷物でも持っていって
散歩した後に
ころりと昼寝したいなと思う。
父の日だったので
実家に顔を出して
昼ごはんを一緒に食べた。
猫の「ろん」が死んだみたいに眠っていた。
最近は日中もあまり起きてこないらしい。
ね、起きてよ、とつついたら
やっと眼をあけて
ごろにゃん、と鳴いて
(声がかすれて本当にそんなふうに鳴く)
久しぶりだね、と近づいてきた。
夏を越せるだろうか。
さすがに高齢だし
双子のモクは去年亡くなった。
父は父で果物が欠乏している私に食べさせようと
キウイを買いに行って、
支払いを終えた後
ちょうど考え事をしていたら
スーパーの買い物かごを
家まで持って返ってきてしまったという。
玄関に緑色の買い物かごが置いてある。
こんなことは初めてだと皆で笑う。
父も母も、もうトシである。
いつかは実家に帰らなければならない。
(一応長女で一人っ子だからね)
一人暮らしは
その日までの執行猶予つき家出、
みたいなものだ。
夕方、下北沢に行くついでもあるしと
世田谷美術館に行った。
用賀から歩く途中の
お気に入りのコーヒー屋さんに
(コーヒーが気に入っているのではなく
内装が良いのだが)
寄りたかったけれど、
経費節約の折からガマンした。
骨董なんてものは、
お金を払って見ようと思ったのは初めてで
白洲さんの生のお話が聞けない代わりに
せめて展示だけでも見に行こう
というのが正直なところだ。
絵のついていないものが好きだ。
(絵つきで好きなのもあるけれど)
端正な中にちょっとどこか崩れていて
どれもみなそれぞれに
愛嬌ある面白い顔つきをしていた。
ガラスケースの中にあっては
分からない、と白洲さんがおっしゃるのも
なるほどで、
触れたらどんなに楽しいだろう。
焼き物の手触り、くちびるの感触、
会場で見たときは、
そんなことまで考えなかった。
芸大でのお話の録音を聞いたあとで
記憶をたどって
未知なる感触をイメージしてみる。
じっと眺めていたかったが
実家のケーブルテレビで
つい刑事コロンボを見て長居してしまったせいで
時間がおしていて
ぐるりと一巡して帰る。
公園は広くて気持ちよい。
いつか
ビニールの敷物でも持っていって
散歩した後に
ころりと昼寝したいなと思う。
根っからの演技下手で、
言ったそばから嘘がばれてしまうので、
お世辞は言わないことにしている。
今月は、ご縁があって
演劇を見る機会が多く、
今日で3回目だった。
生涯を振り返ってみても
月間最多観劇数である。
(皆さま、お招きくださって
まことに有難うございました)
今日は演目の内容に共感できて
面白かったから、
帰り道、原作を買ってきて
読んでいる。
★
舞台が終わった後の関係者の群れには
独特の躍動感と
動物的エネルギーが漲っていて
その空気の中に入っていくのには
少し勇気を要する。
ともあれ、
アクロバティックで
なんだか痛そうなラストシーンを終えて
上気した役者さんの顔を見たら、
お疲れさま、と
頭からビールでも
かけてあげたい気がした。
言ったそばから嘘がばれてしまうので、
お世辞は言わないことにしている。
今月は、ご縁があって
演劇を見る機会が多く、
今日で3回目だった。
生涯を振り返ってみても
月間最多観劇数である。
(皆さま、お招きくださって
まことに有難うございました)
今日は演目の内容に共感できて
面白かったから、
帰り道、原作を買ってきて
読んでいる。
★
舞台が終わった後の関係者の群れには
独特の躍動感と
動物的エネルギーが漲っていて
その空気の中に入っていくのには
少し勇気を要する。
ともあれ、
アクロバティックで
なんだか痛そうなラストシーンを終えて
上気した役者さんの顔を見たら、
お疲れさま、と
頭からビールでも
かけてあげたい気がした。
昨日、
そろそろ、、、と出かけたは良かったが
結局は近所で買い物をして帰ってきた。
どうも判断力が急激に欠落したようで
何もできない。
そんな日もあるさと開き直る。
再度、
行動に至らない
ネット上のクリック運動に没入して
森美術館のル・コルビジュエと
ついでにセット割引になるらしいフランク・ゲーリーの
ドキュメンタリー映画、
あとは世田谷美術館の青山二郎の眼には
行かないと、、、
と思ったところで既に夜になっており。
そんな折に、
美術館のついでにお芝居のお勧めももらったので
珍しく素直に行くことにした。
ちなみに今日の新日曜美術館は
ル・コルビジュエである。
ロンシャン礼拝堂が一番好きだけれど、
あれは晩年の
「無鉄砲な冒険」にあたるものだったのかと思ったら
なんだか嬉しくなった。
そうだ、今日は父の日だった。
そろそろ、、、と出かけたは良かったが
結局は近所で買い物をして帰ってきた。
どうも判断力が急激に欠落したようで
何もできない。
そんな日もあるさと開き直る。
再度、
行動に至らない
ネット上のクリック運動に没入して
森美術館のル・コルビジュエと
ついでにセット割引になるらしいフランク・ゲーリーの
ドキュメンタリー映画、
あとは世田谷美術館の青山二郎の眼には
行かないと、、、
と思ったところで既に夜になっており。
そんな折に、
美術館のついでにお芝居のお勧めももらったので
珍しく素直に行くことにした。
ちなみに今日の新日曜美術館は
ル・コルビジュエである。
ロンシャン礼拝堂が一番好きだけれど、
あれは晩年の
「無鉄砲な冒険」にあたるものだったのかと思ったら
なんだか嬉しくなった。
そうだ、今日は父の日だった。
精神の枯渇を感じて
どこか美術館に行こうと思って
ネットを徘徊していたら
いつの間にか昼になってしまった。
クリック一つも
決断といえば決断、
行動といえば行動だけれど
実際に身体を動かすパワーを持った
「決断」になるには
結構な積み重ね、というか
脳内マッピングがあるんだろう。
何も決められなかった朝を反省して
お勧めしてくれそうな知人に
何本かメールを打ってみた。
(休日に突然メールがきて
びっくりした皆さん、すいません)
こういう場合、
目的地が決まる前に出かける、
というのも一つの策だ。
さてそろそろ出かけるか。
どこか美術館に行こうと思って
ネットを徘徊していたら
いつの間にか昼になってしまった。
クリック一つも
決断といえば決断、
行動といえば行動だけれど
実際に身体を動かすパワーを持った
「決断」になるには
結構な積み重ね、というか
脳内マッピングがあるんだろう。
何も決められなかった朝を反省して
お勧めしてくれそうな知人に
何本かメールを打ってみた。
(休日に突然メールがきて
びっくりした皆さん、すいません)
こういう場合、
目的地が決まる前に出かける、
というのも一つの策だ。
さてそろそろ出かけるか。
珍しく連ドラを見ている。
「わたしたちの教科書」は
割合好きだ。
一応法廷ものだが、
時々出てくるポエティックな台詞が良い。
前回だったか、気に入ったのは、
涙を流すのは、希望があるから、、、
とかね。
★
通勤時間、本は読まずに
芸大の講義の録音を聞いていた。
鞄も肩も、足取りも軽いのは
重たい単行本を家においてきたから
だけではない。
そうだ、
命を輝かせるためなら
何でもありだ、と思う。
心の傾く方向にあるものを
勇気をもって信じよう。
人生は短い。
「わたしたちの教科書」は
割合好きだ。
一応法廷ものだが、
時々出てくるポエティックな台詞が良い。
前回だったか、気に入ったのは、
涙を流すのは、希望があるから、、、
とかね。
★
通勤時間、本は読まずに
芸大の講義の録音を聞いていた。
鞄も肩も、足取りも軽いのは
重たい単行本を家においてきたから
だけではない。
そうだ、
命を輝かせるためなら
何でもありだ、と思う。
心の傾く方向にあるものを
勇気をもって信じよう。
人生は短い。
ミクシィは
殆どRSSリーダーかアクセス解析と等しくなっていて
めっきり関心を失った今日この頃だったけれど、
イベント情報だけは、ありがたく頂戴している。
mixi以外のソースで確認が取れない情報なので
詳細は控えるが、
6月30日、九段下にある某大学で
中沢新一の講演(無料聴講可)があるらしい。
★
昨日は
週の前半2日が過ぎただけなのに
ひどく消耗していたが、
夕食にレバーを食べたせいか
(実に久しぶりの肉類である、、、)
気力体力が多少回復してきた。
まずは月末まで、
否、まずは明日を、
否、まずは今を、生きよう。
実際のところ、
諸行は無常であるからして
今より先は闇である。
殆どRSSリーダーかアクセス解析と等しくなっていて
めっきり関心を失った今日この頃だったけれど、
イベント情報だけは、ありがたく頂戴している。
mixi以外のソースで確認が取れない情報なので
詳細は控えるが、
6月30日、九段下にある某大学で
中沢新一の講演(無料聴講可)があるらしい。
★
昨日は
週の前半2日が過ぎただけなのに
ひどく消耗していたが、
夕食にレバーを食べたせいか
(実に久しぶりの肉類である、、、)
気力体力が多少回復してきた。
まずは月末まで、
否、まずは明日を、
否、まずは今を、生きよう。
実際のところ、
諸行は無常であるからして
今より先は闇である。
江村哲二さんには
2度お目にかかった。
といっても、勿論1対1の面会ではなく
先生は壇上の人であり
私は聴衆の中の一人だった。
美術解剖学のゲストとして初めて
お話を伺った時のことは
よく覚えている。
あの日は仮病を使って
四ツ谷での仕事を3時で切り上げ
上野に着いたのは4時頃で、遅刻して教室に入った。
不思議な魅力をたたえた先生は
笙だったか、
高音を用いた自作の曲を披露され
「内なる音楽を聞く」という話と
ジョンケージのマッシュルームの話もされた。
優れた話者は、いかに聴衆が多くても
「先生は私一人のために話してくれている」
と一人一人に思わせるそうだ。
私ひとりのためのに
語って下さっているように錯覚させた先生は、
やはり優れた先生なのだろうと
その時思った。
以来、ブログを読み、
そこで紹介された本の中で
自分にも理解できそうなものを読むことによって
自称ファンたることを自覚していたつもりだった。
心底悔やまれるのは、
先日の大阪でのコンサートに
行けなかったことである。
クオリア日記を見て驚き、
それから、
何社かのニュースを見て確認し
5月31日を最後に更新されなくなった
江村さんのブログの写真を見た。
現実にお会いする機会の少なかった者にとっては
その知らせさえなければ
あたかも存在し続けていらっしゃるかのようなのに、
たった一つの知らせによって
急に手の届かない光年の彼方に
行ってしまわれたと感じるのは
どうしてなのだろう。
ご冥福をお祈りするばかりである。
2度お目にかかった。
といっても、勿論1対1の面会ではなく
先生は壇上の人であり
私は聴衆の中の一人だった。
美術解剖学のゲストとして初めて
お話を伺った時のことは
よく覚えている。
あの日は仮病を使って
四ツ谷での仕事を3時で切り上げ
上野に着いたのは4時頃で、遅刻して教室に入った。
不思議な魅力をたたえた先生は
笙だったか、
高音を用いた自作の曲を披露され
「内なる音楽を聞く」という話と
ジョンケージのマッシュルームの話もされた。
優れた話者は、いかに聴衆が多くても
「先生は私一人のために話してくれている」
と一人一人に思わせるそうだ。
私ひとりのためのに
語って下さっているように錯覚させた先生は、
やはり優れた先生なのだろうと
その時思った。
以来、ブログを読み、
そこで紹介された本の中で
自分にも理解できそうなものを読むことによって
自称ファンたることを自覚していたつもりだった。
心底悔やまれるのは、
先日の大阪でのコンサートに
行けなかったことである。
クオリア日記を見て驚き、
それから、
何社かのニュースを見て確認し
5月31日を最後に更新されなくなった
江村さんのブログの写真を見た。
現実にお会いする機会の少なかった者にとっては
その知らせさえなければ
あたかも存在し続けていらっしゃるかのようなのに、
たった一つの知らせによって
急に手の届かない光年の彼方に
行ってしまわれたと感じるのは
どうしてなのだろう。
ご冥福をお祈りするばかりである。
pop×popさんで紹介されてた
wikiのマインドマップが結構面白い。
languageは、こんな感じ↓
http://www.wikimindmap.org/viewmap.php?wiki=en.wikipedia.org&topic=language
★
昨日図書館で借りてきた
『SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか』
スティーヴン・ストロガッツ著、
これが読み始めたら
やめられない止まらない。
ある場所の蛍は何故一斉に光るのか
一緒にいる時間の多い
(ルームメイトとか会社の同僚とか)
女性の月経は、
なぜ周期の差がなくなってくるのか、
などなど。
個体の発する微弱な振動子のせいだとか、
異性の気をひくために
一番になろうと競争しているために
自然と同期するのだとか
いろんな話があるらしい。
(2005年の本なので、その後何か
進展があるかもしれないが)
★
ラネカーに関する講義を聞く。
認知言語学においては、
構文に普遍性はないという方向に向かうらしい。
自分の価値観の中には
個別から普遍を見上げる方法があるはずだったが
またよく分からなくなってきてしまった。
ともあれ、
構文の多様性に執着しなければ
(言語学者さんはソシュールの
「差異こそ全て」的なスタイルが好みなのかもしれないが、
私は差異の追究に大して興味がない。
その点においては、
言語に科学的法則性を見ようとしている
チョムスキーの姿勢が好きだ)
認知言語学も科学的な方向に
向かうのではないだろうか。
チョムスキーはその姿勢において
立派な人だと思うのだけれど、
本質を文法や再帰性に求めるところが
納得できないだけなのだ。
ある先生に質問したら一蹴されちゃったけど、
再帰的計算能力ったって
やっぱりアナロジーの一種じゃないのかなあ、と
しつこく考えている。
言語は意味であると思う。
抽象画に見えてくるのは何らかの意味であるように。
そもそも、
SVOという意味抜きに文法構造の話は
できないのではないか。
ある記号(音韻)が
ある事物を示すという対応関係
主語述語目的語、
主体客体その関係というような
抽象化可能な認知方法において
普遍的法則性があるのであって、
既に言語学という枠では窮屈すぎるのではないか、
と素人頭で考えはじめている。
しかるに、はたまた
この認知とクオリアとは、意識とは、
どう折り合いがつくのか、つかないのか、
というあたりに結局は戻っていく。
そういうわけで、
今日の講義は
断腸の思いでやむなく欠席となった。
(まあ、もぐりなわけだから
欠席もなにも、、ともいえるのだが)
一応、長期就業を希望している会社での
人間関係を円滑に運ぶために
今まで実によく使った手であるところの
仮病による欠勤と早退は
やめておこうと判断した。
社会人らしくしているのは
何かと窮屈である。
★
おまけ。
http://www.wikimindmap.org/viewmap.php?wiki=en.wikipedia.org&topic=Quale
wikiのマインドマップが結構面白い。
languageは、こんな感じ↓
http://www.wikimindmap.org/viewmap.php?wiki=en.wikipedia.org&topic=language
★
昨日図書館で借りてきた
『SYNC なぜ自然はシンクロしたがるのか』
スティーヴン・ストロガッツ著、
これが読み始めたら
やめられない止まらない。
ある場所の蛍は何故一斉に光るのか
一緒にいる時間の多い
(ルームメイトとか会社の同僚とか)
女性の月経は、
なぜ周期の差がなくなってくるのか、
などなど。
個体の発する微弱な振動子のせいだとか、
異性の気をひくために
一番になろうと競争しているために
自然と同期するのだとか
いろんな話があるらしい。
(2005年の本なので、その後何か
進展があるかもしれないが)
★
ラネカーに関する講義を聞く。
認知言語学においては、
構文に普遍性はないという方向に向かうらしい。
自分の価値観の中には
個別から普遍を見上げる方法があるはずだったが
またよく分からなくなってきてしまった。
ともあれ、
構文の多様性に執着しなければ
(言語学者さんはソシュールの
「差異こそ全て」的なスタイルが好みなのかもしれないが、
私は差異の追究に大して興味がない。
その点においては、
言語に科学的法則性を見ようとしている
チョムスキーの姿勢が好きだ)
認知言語学も科学的な方向に
向かうのではないだろうか。
チョムスキーはその姿勢において
立派な人だと思うのだけれど、
本質を文法や再帰性に求めるところが
納得できないだけなのだ。
ある先生に質問したら一蹴されちゃったけど、
再帰的計算能力ったって
やっぱりアナロジーの一種じゃないのかなあ、と
しつこく考えている。
言語は意味であると思う。
抽象画に見えてくるのは何らかの意味であるように。
そもそも、
SVOという意味抜きに文法構造の話は
できないのではないか。
ある記号(音韻)が
ある事物を示すという対応関係
主語述語目的語、
主体客体その関係というような
抽象化可能な認知方法において
普遍的法則性があるのであって、
既に言語学という枠では窮屈すぎるのではないか、
と素人頭で考えはじめている。
しかるに、はたまた
この認知とクオリアとは、意識とは、
どう折り合いがつくのか、つかないのか、
というあたりに結局は戻っていく。
そういうわけで、
今日の講義は
断腸の思いでやむなく欠席となった。
(まあ、もぐりなわけだから
欠席もなにも、、ともいえるのだが)
一応、長期就業を希望している会社での
人間関係を円滑に運ぶために
今まで実によく使った手であるところの
仮病による欠勤と早退は
やめておこうと判断した。
社会人らしくしているのは
何かと窮屈である。
★
おまけ。
http://www.wikimindmap.org/viewmap.php?wiki=en.wikipedia.org&topic=Quale
出かける頃は強い雨だったが、
トークセッションが終わって
上野の国立博物館を出たら
嘘のように強い日が差していた。
理化学研究所のトークセッションは
面白かった。
チンパンジーのアイとあゆみは
ある機能においては人間より賢い。
彼らは瞬間的記憶能力を獲得した替わりに
言語機能、表象、象徴能力を喪失し、
人間は前者を喪失した替わりに
後者を獲得した、
という説は納得がいった。
進化において
獲得だけがクローズアップされるが
喪失という側面があってこそ獲得できる。
あるパネリストさんが
笛を取り出したのには驚いた。
ピッコロのように高い音は脳髄に響き
横笛は心臓あたりに、
法螺貝や修行で経文を称える声は決まって
腹に響く低音である。
脳、心臓、下腹部それぞれに丹田があって
ミクロコスモスを形成しているという
中国の内経図は細密画として見ても
楽しいものだった。
五大にみな響きあり。
何か頭にこびりつく言葉である。
最近見た地球交響曲第六番を思い出す。
ところで
ニホンザルの研究をしている先生が
ニホンザルは訓練すると
モニターを見ながら
カマのようなものを使って
餌を手前に引き寄せられるようになるらしい
と言っていた。
その過程では、
2−3週間で遺伝子に変化が生じ、
神経回路が枝を張るようになる。
ということは、
進化の過程で一旦喪失した機能であっても
2−3週間訓練すれば
遺伝子に変化を生じ、
行動が変わるということか。
体育の授業を受ける機会がなくなって以来、
殆ど走ったという記憶のない人間が
(私のことだ)
突然思い立ってジョギングを始め
先週は筋肉痛で割合苦労した。
けれど、2週間辛抱したら、
遺伝子が変化するのかもしれない。
身体の使い方を変えることによって
脳も変わるわけだ。
知識をつめこむことだけが
脳を鍛えることではない。
それこそ、
呼吸法やら諸々を含めた
身体を鍛えることによって
脳内の神経結合が繋ぎ変わるという側面も
忘れてはいけない。
と思っていたら、
夜、NHKラジオの茂木先生の
関西での講演を聞いていたら
習慣とは2週間程度で定着する
という話だった。
2週間か、、、
と思ったら、なんだか嬉しくなった。
前後するけれど、
セッションの中で、
喪失と獲得が予定調和的に起こっていると
いう発言が印象に残った。
野生のサルが発揮する能力と、
訓練されたサルの獲得する能力は違う。
ところが
野生のヒト、という概念は殆どなく
多少の差はあれ、
人間とは訓練、教育されてこそ
人間らしい。
社会的であるからこそ人間といえ
他者と自己の関係の中にこそ
人間らしさがあるのかもしれない
という発言に共感した。
進化の過程で、
自分が動くというレベルから
他を動かすというレベルに達し
(それによって
メタ認知機能が働くようになったのではないか、
心が生まれたのではないか)
そこには社会の発生が関わっており
相互に教育するようなシステムができ
そこで言語、文字が生まれ、、、
というようなダイナミックな変化が
一気に起こったような
感がある。
必要によって進化が起こるのではない、
と聞いてはいたけれど、
知れば知るほど
何故進化は起こったかという
問いに答えはなく。
人知を超えたものの存在を
思うのは
そんなときである。
日没が遅くなった。
最寄駅に到着して見上げたら
夕暮れに似合わない青空に白い雲が
浮かんでいる。
マグリットの光の帝国みたいな。
先程まで聞いていた
坂本龍一のシェルタリング・スカイのテーマが
頭の中に響いていた。
あの映画が時折思い出されるのは
砂漠の映像が美しいということもあるけれど
ある経験の後に
世界の見え方がまるで変化するということが
明瞭に描かれているからだ
と初めて気がついた。
瞬間瞬間の決断の積み重ねが
何を獲得して何を喪失するか、
どんな世界を見、何を見ないかを
形作っていく。
トークセッションが終わって
上野の国立博物館を出たら
嘘のように強い日が差していた。
理化学研究所のトークセッションは
面白かった。
チンパンジーのアイとあゆみは
ある機能においては人間より賢い。
彼らは瞬間的記憶能力を獲得した替わりに
言語機能、表象、象徴能力を喪失し、
人間は前者を喪失した替わりに
後者を獲得した、
という説は納得がいった。
進化において
獲得だけがクローズアップされるが
喪失という側面があってこそ獲得できる。
あるパネリストさんが
笛を取り出したのには驚いた。
ピッコロのように高い音は脳髄に響き
横笛は心臓あたりに、
法螺貝や修行で経文を称える声は決まって
腹に響く低音である。
脳、心臓、下腹部それぞれに丹田があって
ミクロコスモスを形成しているという
中国の内経図は細密画として見ても
楽しいものだった。
五大にみな響きあり。
何か頭にこびりつく言葉である。
最近見た地球交響曲第六番を思い出す。
ところで
ニホンザルの研究をしている先生が
ニホンザルは訓練すると
モニターを見ながら
カマのようなものを使って
餌を手前に引き寄せられるようになるらしい
と言っていた。
その過程では、
2−3週間で遺伝子に変化が生じ、
神経回路が枝を張るようになる。
ということは、
進化の過程で一旦喪失した機能であっても
2−3週間訓練すれば
遺伝子に変化を生じ、
行動が変わるということか。
体育の授業を受ける機会がなくなって以来、
殆ど走ったという記憶のない人間が
(私のことだ)
突然思い立ってジョギングを始め
先週は筋肉痛で割合苦労した。
けれど、2週間辛抱したら、
遺伝子が変化するのかもしれない。
身体の使い方を変えることによって
脳も変わるわけだ。
知識をつめこむことだけが
脳を鍛えることではない。
それこそ、
呼吸法やら諸々を含めた
身体を鍛えることによって
脳内の神経結合が繋ぎ変わるという側面も
忘れてはいけない。
と思っていたら、
夜、NHKラジオの茂木先生の
関西での講演を聞いていたら
習慣とは2週間程度で定着する
という話だった。
2週間か、、、
と思ったら、なんだか嬉しくなった。
前後するけれど、
セッションの中で、
喪失と獲得が予定調和的に起こっていると
いう発言が印象に残った。
野生のサルが発揮する能力と、
訓練されたサルの獲得する能力は違う。
ところが
野生のヒト、という概念は殆どなく
多少の差はあれ、
人間とは訓練、教育されてこそ
人間らしい。
社会的であるからこそ人間といえ
他者と自己の関係の中にこそ
人間らしさがあるのかもしれない
という発言に共感した。
進化の過程で、
自分が動くというレベルから
他を動かすというレベルに達し
(それによって
メタ認知機能が働くようになったのではないか、
心が生まれたのではないか)
そこには社会の発生が関わっており
相互に教育するようなシステムができ
そこで言語、文字が生まれ、、、
というようなダイナミックな変化が
一気に起こったような
感がある。
必要によって進化が起こるのではない、
と聞いてはいたけれど、
知れば知るほど
何故進化は起こったかという
問いに答えはなく。
人知を超えたものの存在を
思うのは
そんなときである。
日没が遅くなった。
最寄駅に到着して見上げたら
夕暮れに似合わない青空に白い雲が
浮かんでいる。
マグリットの光の帝国みたいな。
先程まで聞いていた
坂本龍一のシェルタリング・スカイのテーマが
頭の中に響いていた。
あの映画が時折思い出されるのは
砂漠の映像が美しいということもあるけれど
ある経験の後に
世界の見え方がまるで変化するということが
明瞭に描かれているからだ
と初めて気がついた。
瞬間瞬間の決断の積み重ねが
何を獲得して何を喪失するか、
どんな世界を見、何を見ないかを
形作っていく。
立教大学で谷川俊太郎さんの詩とお話を聞く。
ご本人の朗読を聞くのは初めてだ。
すっと沁み込んでくる言葉が多い。
言語学の授業を受けるようになってから、
言葉について考えることが多くなった。
言葉で出来上がった「私」とわたし、
(朗読でしか知らないので、
原文がどのように書かれているか知らないけれど)
という対比は、ぴったりきた。
自分が認識している世界、
もやもやとした多義的なものの
ごく一部しか言語は捉えきれない、
ということを
切実に感じていたせいもある。
自分の中に詩があるのではなく
日本語の中に詩があると思い始めてから
ラクになった、
言語の力、という言葉も
なんとなく頭にこびりついている。
作風の孤独さについて、
一人っ子で
他者を必要としない傾向がある、とか
detachment、
「嗜眠性うつ」というのがあると
今日始めて聞いたけれど、
鬱になると、とにかくよく眠るとか
眠っているのが好きで
夢もあまり覚えていない、
というあたりに共通項を見出して
大詩人が近しく感じられた。
でも昨日の夢は珍しく覚えている。
私の尊敬しているある脳科学の先生が
刑事モノのドラマに
主演している夢だった。
多分、金曜洋画劇場で
ボーンコレクターを見たせいだろう。
★
夜、お芝居を見に行く。
みんな頑張っている。
前の職場でお世話になった友人との
初デートも兼ねている。
タコライスを食べて幸せになる。
コメディタッチの劇だったが
ふと気がつくと
多世界解釈について考えていた。
ご本人の朗読を聞くのは初めてだ。
すっと沁み込んでくる言葉が多い。
言語学の授業を受けるようになってから、
言葉について考えることが多くなった。
言葉で出来上がった「私」とわたし、
(朗読でしか知らないので、
原文がどのように書かれているか知らないけれど)
という対比は、ぴったりきた。
自分が認識している世界、
もやもやとした多義的なものの
ごく一部しか言語は捉えきれない、
ということを
切実に感じていたせいもある。
自分の中に詩があるのではなく
日本語の中に詩があると思い始めてから
ラクになった、
言語の力、という言葉も
なんとなく頭にこびりついている。
作風の孤独さについて、
一人っ子で
他者を必要としない傾向がある、とか
detachment、
「嗜眠性うつ」というのがあると
今日始めて聞いたけれど、
鬱になると、とにかくよく眠るとか
眠っているのが好きで
夢もあまり覚えていない、
というあたりに共通項を見出して
大詩人が近しく感じられた。
でも昨日の夢は珍しく覚えている。
私の尊敬しているある脳科学の先生が
刑事モノのドラマに
主演している夢だった。
多分、金曜洋画劇場で
ボーンコレクターを見たせいだろう。
★
夜、お芝居を見に行く。
みんな頑張っている。
前の職場でお世話になった友人との
初デートも兼ねている。
タコライスを食べて幸せになる。
コメディタッチの劇だったが
ふと気がつくと
多世界解釈について考えていた。
日が照ってる間に走ることは
殆どない。
第一に、見苦しいのである。
マラソンランナーなどという人種は
走っていても格好が良いが、
凡人が走ると本人は気持ち良いが
どうも見てくれが悪い。
私の場合、
ただでさえ見苦しい顔の全面が
真っ赤になり、
口の周りだけが妙に青白い。
そのコントラストが
我ながら気持ち悪いのである。
ともあれ、
今晩は雨が降りそうだし
平日はともかく
週末に日課が途絶えるのは
やはり嫌だから、
見栄を振り捨てて、今走ってきた。
グーグルマップで距離を確認してみたところ、
どうやら3キロ程度を
20分かけて走っている。
歩く速さとさして変わらない。
キャメロン・ディアスが言っていた。
(確か、英語でしゃべらナイトのインタビューに答えて)
あまりトレーニングはしたことがなかった。
ある時トレーニングを始めたら
自分は強いと思えるようになった。
以来、強い自分でい続けたいから、
トレーニングを続けていると。
キャメロン・ディアスは
出演している役どころが
いつもあまり好きではないけれど、
その言葉にだけは共感した。
私も強くありたい。
殆どない。
第一に、見苦しいのである。
マラソンランナーなどという人種は
走っていても格好が良いが、
凡人が走ると本人は気持ち良いが
どうも見てくれが悪い。
私の場合、
ただでさえ見苦しい顔の全面が
真っ赤になり、
口の周りだけが妙に青白い。
そのコントラストが
我ながら気持ち悪いのである。
ともあれ、
今晩は雨が降りそうだし
平日はともかく
週末に日課が途絶えるのは
やはり嫌だから、
見栄を振り捨てて、今走ってきた。
グーグルマップで距離を確認してみたところ、
どうやら3キロ程度を
20分かけて走っている。
歩く速さとさして変わらない。
キャメロン・ディアスが言っていた。
(確か、英語でしゃべらナイトのインタビューに答えて)
あまりトレーニングはしたことがなかった。
ある時トレーニングを始めたら
自分は強いと思えるようになった。
以来、強い自分でい続けたいから、
トレーニングを続けていると。
キャメロン・ディアスは
出演している役どころが
いつもあまり好きではないけれど、
その言葉にだけは共感した。
私も強くありたい。
仕事は存外、ラクである。
今のところ、
書類の校正的なレビューさえしていれば良いから、
後の時間は治験関係の英文を読んで
専門用語を覚えている。
訳の分からない論文やレポートが
じゃんじゃん送られてくるが、
脳科学や言語学の論文に格闘した
(現在も格闘しているが)経験が役に立って、
続けていれば
そのうち掴めるようになるさと
さほど焦らずに済む。
2メートル四方ほどのブースを与えて
もらっているから至極居心地がよく
飲料は飲み放題なので
食費の中で占める飲み物代の割合が高い
私にとってはありがたい。
★
筋肉痛と疲労のせいで
中2日開けてのジョギング。
20分は走れるようになった。
次は、10キロマラソンあたりを
目標にしてみようか。
今のところ、
書類の校正的なレビューさえしていれば良いから、
後の時間は治験関係の英文を読んで
専門用語を覚えている。
訳の分からない論文やレポートが
じゃんじゃん送られてくるが、
脳科学や言語学の論文に格闘した
(現在も格闘しているが)経験が役に立って、
続けていれば
そのうち掴めるようになるさと
さほど焦らずに済む。
2メートル四方ほどのブースを与えて
もらっているから至極居心地がよく
飲料は飲み放題なので
食費の中で占める飲み物代の割合が高い
私にとってはありがたい。
★
筋肉痛と疲労のせいで
中2日開けてのジョギング。
20分は走れるようになった。
次は、10キロマラソンあたりを
目標にしてみようか。
友人たちと出かけて、
帰りがけに少し飲んできた。
諸々差障りがあるから詳細は控えるけれど、
印象に残ったのは
好きな人との「なれそめ」を語る友人の横顔が
とても綺麗だったこと。
そういう気分には
最近めっきりご無沙汰してるけれど
恋も良いものですね。
帰りがけに少し飲んできた。
諸々差障りがあるから詳細は控えるけれど、
印象に残ったのは
好きな人との「なれそめ」を語る友人の横顔が
とても綺麗だったこと。
そういう気分には
最近めっきりご無沙汰してるけれど
恋も良いものですね。
仕事後の授業は18時始まりである。
日程的には厳しいし
派遣なのに早退(フレックス)可の
仕事を見つけるのも大変だったけれど、
今にして思えば、これで良かった。
前期は、あと1ヶ月。
がんばろう。
太腿の筋肉痛で
足が上がらない。
今まであまり使わなかった
筋肉の存在を認識できる
愛しい機縁であると思おう。
日程的には厳しいし
派遣なのに早退(フレックス)可の
仕事を見つけるのも大変だったけれど、
今にして思えば、これで良かった。
前期は、あと1ヶ月。
がんばろう。
太腿の筋肉痛で
足が上がらない。
今まであまり使わなかった
筋肉の存在を認識できる
愛しい機縁であると思おう。
足裏のみみず腫れ、
腿の筋肉痛。
30歳代初の20分完走には
悲しき副作用があった。
しかし。
これぐらいでは、へこたれないのだ。
走る走る。
★
『論理哲学論考を読む』は
関数という言葉が出てきた時点で頓挫した。
続けて、『哲学の謎』を読む。
恣意的に記号に意味を付す
「私的言語」はたとえ存在しても意味はないが、
「私的経験」は存在する。
認知言語学を学び始めた当初、
メタファーには大した関心はなかったのだが
語そのものが論理形式を持ち
意味と文法は切り離すことができない
という目線で見てみると
実は比喩は「深い」のかもしれない、
と思いつつある。
腿の筋肉痛。
30歳代初の20分完走には
悲しき副作用があった。
しかし。
これぐらいでは、へこたれないのだ。
走る走る。
★
『論理哲学論考を読む』は
関数という言葉が出てきた時点で頓挫した。
続けて、『哲学の謎』を読む。
恣意的に記号に意味を付す
「私的言語」はたとえ存在しても意味はないが、
「私的経験」は存在する。
認知言語学を学び始めた当初、
メタファーには大した関心はなかったのだが
語そのものが論理形式を持ち
意味と文法は切り離すことができない
という目線で見てみると
実は比喩は「深い」のかもしれない、
と思いつつある。
6月
谷川俊太郎(立教大学)
http://www.daigaku.co.jp/rikkyo/00006/200705143/index.html
マルレーネ・デュマス(展覧会)
http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/
吉増剛造(朝カル)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/#
重松清(早稲田大学)
http://www.waseda.jp/bun/activities/125/
7月
茂木健一郎(朝カル・8月平田オリザ)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0301.html
9月
辻惟雄(朝カル)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0901.html
谷川俊太郎(立教大学)
http://www.daigaku.co.jp/rikkyo/00006/200705143/index.html
マルレーネ・デュマス(展覧会)
http://www.mot-art-museum.jp/kikaku/
吉増剛造(朝カル)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/#
重松清(早稲田大学)
http://www.waseda.jp/bun/activities/125/
7月
茂木健一郎(朝カル・8月平田オリザ)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0301.html
9月
辻惟雄(朝カル)
http://www.acc-web.co.jp/sinjyuku/0707koza/A0901.html
夜、ジョギング。
行けるところまで行こうと
ゆっくり走り始めた。
薄闇に風が心地よい。
最近見たNHKのジョギング番組を思い出し
気がつくと前傾している姿勢を
腕を大きく振って立て直す。
3分を超えると胸が苦しかった頃が
嘘のようだ。
呼吸法が上達して
楽に走れるようになった。
さすがに15分を過ぎると
ゴールが欲しくなってきた。
遠くに見える店の灯りを目印に行く。
途中から
声が聞こえるようになった。
行ける、まだ行ける。
自分の中の生命力を
あなどってはいけない。
思ったよりも頑張り屋で
楽観的である。
そうだ、
私の体中にはチーターの遺伝子が
紛れ込んでいるかもしれない。
草原を疾走していた頃の生命記憶が
やるせなくも
アスファルトの上を
走らせているのかもしれない。
一瞬、海の向こうの遥かな大陸まで
意識が飛んで行き
草原の匂いをかいで帰ってきたような
そんな気がした。
行けるところまで行こうと
ゆっくり走り始めた。
薄闇に風が心地よい。
最近見たNHKのジョギング番組を思い出し
気がつくと前傾している姿勢を
腕を大きく振って立て直す。
3分を超えると胸が苦しかった頃が
嘘のようだ。
呼吸法が上達して
楽に走れるようになった。
さすがに15分を過ぎると
ゴールが欲しくなってきた。
遠くに見える店の灯りを目印に行く。
途中から
声が聞こえるようになった。
行ける、まだ行ける。
自分の中の生命力を
あなどってはいけない。
思ったよりも頑張り屋で
楽観的である。
そうだ、
私の体中にはチーターの遺伝子が
紛れ込んでいるかもしれない。
草原を疾走していた頃の生命記憶が
やるせなくも
アスファルトの上を
走らせているのかもしれない。
一瞬、海の向こうの遥かな大陸まで
意識が飛んで行き
草原の匂いをかいで帰ってきたような
そんな気がした。
新職場での1週間が終わった金曜日、
会社を出たら
意外にがっくり来た。
新宿で対談を聞く。
自分の分身ともいえる
キャラが住みついていて
時折ひょっこり出てくるという
漫画家さんの脳みそって面白い。
仕事を通じて
人格改造の機会をどう作り、
遠くを目指すか。
足元を見、彼方を見て
歩いていく。
土曜。
日中はごろごろしていた。
『論理哲学論考を読む』
を読んでいる。面白い。
夕方思い立って
「地球交響曲第六番」
を見に恵比寿へ行く。
これはお勧め。
宇宙の原初から
音波は流れていたという。
鯨の唄はやさしい旋律で、
どことなく懐かしい。
人間が音楽をつくったというよりも
音が生命を生み出し、人間をつくった
といえるのではないか、
という言葉にも
無理なく肯ける気がした。
演奏家は
自分が弾いているのではない、
と感じることがあるという。
宇宙の音を
自分を通して響かせていると
思える瞬間が訪れると。
祈りに宿る美しきもの。
人知を超えた遥かなものへの祈りが
人間のすることに
意味を与えてくれる、
そんな気がする。
会社を出たら
意外にがっくり来た。
新宿で対談を聞く。
自分の分身ともいえる
キャラが住みついていて
時折ひょっこり出てくるという
漫画家さんの脳みそって面白い。
仕事を通じて
人格改造の機会をどう作り、
遠くを目指すか。
足元を見、彼方を見て
歩いていく。
土曜。
日中はごろごろしていた。
『論理哲学論考を読む』
を読んでいる。面白い。
夕方思い立って
「地球交響曲第六番」
を見に恵比寿へ行く。
これはお勧め。
宇宙の原初から
音波は流れていたという。
鯨の唄はやさしい旋律で、
どことなく懐かしい。
人間が音楽をつくったというよりも
音が生命を生み出し、人間をつくった
といえるのではないか、
という言葉にも
無理なく肯ける気がした。
演奏家は
自分が弾いているのではない、
と感じることがあるという。
宇宙の音を
自分を通して響かせていると
思える瞬間が訪れると。
祈りに宿る美しきもの。
人知を超えた遥かなものへの祈りが
人間のすることに
意味を与えてくれる、
そんな気がする。
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