これは日曜の話。
色々とご縁があって、
むかしの同僚さんが出演しているお芝居を見に行くことになった。
友人と11時に三鷹で待ち合わせ、ごはんを食べても少し時間が浮いたから
同じビルに入っている書店をうろうろしていた。
特に探していたわけでもないのに目に飛び込んでくる本があるもので、
鷲田清一『聴くことの力』。
都民税の支払いがあるから、今月こそはマジメに書籍代を削らないと、と
ちびたことを考えていたのだが、
そんな考えがものの見事に吹き飛んでしまって、
気がついたときには友人をほったらかしてレジに並んでいた。
とても、沁みる本なのである。
いま(これはほんとうにいまの話、)読んでいる。
障害をもつ子供さんと、そのお父さんとのやりとりが、
これまた沁みるのである。
いたずらをやらかして、ひどく叱られた後、その子供さんは
「ねえ、ゆっくん(子供自身のこと)きょうなにしたの?」と親に問う。
こんな悪いことしたでしょ、と、たった今起こった出来事を「まとめ」てあげると
それでにんまりして気分を回復できるようなのだそうだ。
「彼はすでに自分の頭のなかで言葉による「まとめ」を思い描いている。しかしそれを他者の口から言ってもらうことが大事なのだ。親がそのときたまたまうわのそらで、すぐに適当な「まとめ」をしてやらないと、彼は自分が言ってほしい文章の最初の部分だけちょっぴり言って、あとを続けるように促すのだから。だから言葉が身体や感情のアナログ的過程を文節化することだけに意味があるのではない。それならば佑卓は独白して気持ちをおさえることもできるはずだ。まさに言葉が他者のほうから彼にむかって「さしのべられる」ことが彼にとっては仲なおりの儀式のための必要条件なのである。言葉を情報伝達のための記号として操作することに長けていない「自閉症児」であればこそ、身体と融合した言葉の真に魔術的な力を感知し、必要としているのではなかろうか」(鷲田清一『聴くことの力』より、菅原和孝『身体の人類学』からの引用と思われる部分を孫引き)
ところで、この本をどこでお薦めいただいたかとメモを探ってみたところ、
内田先生の講演で聞いたのである。
あの日のテーマはnarrativeで、既存の「格差」物語、またその物語を安易に受け入れる大衆をも巻き込んで起こった秋葉原事件における「物語」の危険性という流れのお話しだった。マルチチュードともいうべき本来ひとつに統合されようもない多様性が、安易にひとつの物語に「まとめ」られてしまうこと、それに異議をさしはさまないことの危険性に思いを至す半面、究極のコミュニケーションとしての物語も存在することに改めて感じ入る。
物語ることについての、この真逆の結果は何なのだろう。
「言葉を情報伝達のための記号として操作することに長けていない「自閉症児」であればこそ、身体と融合した言葉の真に魔術的な力を感知し、必要としているのではなかろうか」
この言葉に何かの鍵があるような気もするのである。
(よく思い出せないが、たぶん内田先生のお話でもそんな文脈でこの本が出てきたのではなかっただろうか、)
★
毎週月曜に通っていた授業もあとは試験を残すのみとなって、
前期の講義は最終回だった。
フランシスコ・ザビエルというひとは、ずいぶんと旅をした人で、
その足跡とともに15〜16世紀の彼の旅した各国の音楽をたどるという流れのお話だった。
音楽がその時代の空気を感じさせてくれる。
というか、同時代の各土地の音楽を聞き比べるというのは、なにしろ単純に面白くて、
まあいつもそうなのだけれども、こんな音楽もあるのか、と、
ほとんど呆然と聞いているのである。
だけれども、今日は少しへんなことをかんがえていた。
まだ音楽が芸術的にとらえられる時代には少し早い、
この時期だから、かもしれないけれども、やっぱり音楽と宗教の関係は深い。
ある程度の様式と距離を保って神を讃える賛美歌系列の音楽と
自らに神仏が憑依するための手段として音楽を使っている系列があるなあ、と。
イスラムあたりから東方向、アジア系の音楽って、なんか「憑いてる」かんじがする。
というようなことが思い浮かんだ背景には、明菜ちゃんのシャーマン性ということもあったし、
土曜の美術史講義で見た桃山期の陣羽織が
カンディンスキーかマティスみたいなデザインだった、ってことなんかもあった。
戦いはハレの場であり、ファッション性を高めて目立つことは
神仏に見守ってもらう意味もあった、というようなお話とか。
人間てやっぱりどこかに神仏、それに類する他者を想定して
それにある時は守られたり、憑かれたり、またある時は許されたりしないと
うまく生きていけない精神構造を持ってるんだろうか、とか。
さっぱりまとまらない。
とりあえず、運動不足の折から高田馬場駅までてろてろ歩き、
若桑みどりさんの本を買って、(この著者の、最近文庫になった、
クワなんとかってカタカナで始まる本なんですけど、
と言っただけで、さささっとその場所に案内してくれた本屋のおにいさんに感服したりもしつつ、)
帰宅してコンサートのチケットをとった。
いったん「おススメにハズレがない」と思ってしまうと、
(そう思うまでに時間がかかることが多いわけだけども、)わりに素直なのである。
色々とご縁があって、
むかしの同僚さんが出演しているお芝居を見に行くことになった。
友人と11時に三鷹で待ち合わせ、ごはんを食べても少し時間が浮いたから
同じビルに入っている書店をうろうろしていた。
特に探していたわけでもないのに目に飛び込んでくる本があるもので、
鷲田清一『聴くことの力』。
都民税の支払いがあるから、今月こそはマジメに書籍代を削らないと、と
ちびたことを考えていたのだが、
そんな考えがものの見事に吹き飛んでしまって、
気がついたときには友人をほったらかしてレジに並んでいた。
とても、沁みる本なのである。
いま(これはほんとうにいまの話、)読んでいる。
障害をもつ子供さんと、そのお父さんとのやりとりが、
これまた沁みるのである。
いたずらをやらかして、ひどく叱られた後、その子供さんは
「ねえ、ゆっくん(子供自身のこと)きょうなにしたの?」と親に問う。
こんな悪いことしたでしょ、と、たった今起こった出来事を「まとめ」てあげると
それでにんまりして気分を回復できるようなのだそうだ。
「彼はすでに自分の頭のなかで言葉による「まとめ」を思い描いている。しかしそれを他者の口から言ってもらうことが大事なのだ。親がそのときたまたまうわのそらで、すぐに適当な「まとめ」をしてやらないと、彼は自分が言ってほしい文章の最初の部分だけちょっぴり言って、あとを続けるように促すのだから。だから言葉が身体や感情のアナログ的過程を文節化することだけに意味があるのではない。それならば佑卓は独白して気持ちをおさえることもできるはずだ。まさに言葉が他者のほうから彼にむかって「さしのべられる」ことが彼にとっては仲なおりの儀式のための必要条件なのである。言葉を情報伝達のための記号として操作することに長けていない「自閉症児」であればこそ、身体と融合した言葉の真に魔術的な力を感知し、必要としているのではなかろうか」(鷲田清一『聴くことの力』より、菅原和孝『身体の人類学』からの引用と思われる部分を孫引き)
ところで、この本をどこでお薦めいただいたかとメモを探ってみたところ、
内田先生の講演で聞いたのである。
あの日のテーマはnarrativeで、既存の「格差」物語、またその物語を安易に受け入れる大衆をも巻き込んで起こった秋葉原事件における「物語」の危険性という流れのお話しだった。マルチチュードともいうべき本来ひとつに統合されようもない多様性が、安易にひとつの物語に「まとめ」られてしまうこと、それに異議をさしはさまないことの危険性に思いを至す半面、究極のコミュニケーションとしての物語も存在することに改めて感じ入る。
物語ることについての、この真逆の結果は何なのだろう。
「言葉を情報伝達のための記号として操作することに長けていない「自閉症児」であればこそ、身体と融合した言葉の真に魔術的な力を感知し、必要としているのではなかろうか」
この言葉に何かの鍵があるような気もするのである。
(よく思い出せないが、たぶん内田先生のお話でもそんな文脈でこの本が出てきたのではなかっただろうか、)
★
毎週月曜に通っていた授業もあとは試験を残すのみとなって、
前期の講義は最終回だった。
フランシスコ・ザビエルというひとは、ずいぶんと旅をした人で、
その足跡とともに15〜16世紀の彼の旅した各国の音楽をたどるという流れのお話だった。
音楽がその時代の空気を感じさせてくれる。
というか、同時代の各土地の音楽を聞き比べるというのは、なにしろ単純に面白くて、
まあいつもそうなのだけれども、こんな音楽もあるのか、と、
ほとんど呆然と聞いているのである。
だけれども、今日は少しへんなことをかんがえていた。
まだ音楽が芸術的にとらえられる時代には少し早い、
この時期だから、かもしれないけれども、やっぱり音楽と宗教の関係は深い。
ある程度の様式と距離を保って神を讃える賛美歌系列の音楽と
自らに神仏が憑依するための手段として音楽を使っている系列があるなあ、と。
イスラムあたりから東方向、アジア系の音楽って、なんか「憑いてる」かんじがする。
というようなことが思い浮かんだ背景には、明菜ちゃんのシャーマン性ということもあったし、
土曜の美術史講義で見た桃山期の陣羽織が
カンディンスキーかマティスみたいなデザインだった、ってことなんかもあった。
戦いはハレの場であり、ファッション性を高めて目立つことは
神仏に見守ってもらう意味もあった、というようなお話とか。
人間てやっぱりどこかに神仏、それに類する他者を想定して
それにある時は守られたり、憑かれたり、またある時は許されたりしないと
うまく生きていけない精神構造を持ってるんだろうか、とか。
さっぱりまとまらない。
とりあえず、運動不足の折から高田馬場駅までてろてろ歩き、
若桑みどりさんの本を買って、(この著者の、最近文庫になった、
クワなんとかってカタカナで始まる本なんですけど、
と言っただけで、さささっとその場所に案内してくれた本屋のおにいさんに感服したりもしつつ、)
帰宅してコンサートのチケットをとった。
いったん「おススメにハズレがない」と思ってしまうと、
(そう思うまでに時間がかかることが多いわけだけども、)わりに素直なのである。
そろそろかしら、と思っていた小沼先生のご著書が書店に並びました。
Amazonで買おうかと迷っていたのだけれど、
やはり本屋で探す楽しみというのがあって、いつもの紀伊国屋で。
ジョビンの本も一緒に購入。
その題名からして、『発端は、中森明菜』。
明菜ちゃんが40歳になったのがきっかけだった、というお話は伺っていたのだけれど、
正直なところ、なぜに明菜なのかなあ、と思ってたわけです。
一読したあとも、
やっぱり私は明菜ちゃんのこと、そんなに熱烈に好きというほどでもなかったし、と。
もともと、ちびまる子が山口百恵を歌う、みたいに芸達者な真似をした記憶は一度もないし、
カラオケだって(昔も今も、年に数えるほどしか行かないけど)
女性歌手の歌はユーミンか渡辺美里ぐらいしか歌わないし。
そこで、どうしてまる子ちゃんみたいに
いかにも女の子らしい、可愛らしげなことをしなかったんだろう、
と考えてみるに。
たぶん、歌詞を覚えるのが苦手なんだね。
3歳から13歳ぐらいまではピアノをしていたから
メロディーラインはそれなりに覚えて鼻歌ぐらいはできるんだけど、
好きな歌でも、相当聞きこまないと歌詞が記憶できない。
そのせいで、歌謡曲なるものを真似して歌う、更に運痴だから振り真似なぞという芸当は、
はなからしようなんて気にはならなかったんだろうなあ。
あと、小学生の頃は、けっこう習い事で忙しくて
テレビ番組なんてあまり見なかった。
小学校にあがってからは吉祥寺のヤマハに通っていたし、
習字と公文、英語に絵画教室、高学年になったら塾にも行ったし。
歌番組を見ている暇なんてなくて、
学校でもマンガやアニメの話にはついていけてなかったし。
しかしながら。
12歳でヤマハのグループレッスンを卒業して
それまで担当していたシミズ先生が作曲の個人指導クラスの先生になっちゃったのと、
指が短くてピアノ奏者に向いてないという先生と母(と自分)が判断したのとで、
一つ年下のコバヤシシュンタロウ君という子と2人して、
無理やり作曲クラスに行かされる羽目になった。
んだけれど、残念ながら、私は楽譜が書けなかったんだな、これが!(笑)
読むのも苦手だったから、ある程度予期してはいたけれども。
テキトーに即興するのは好きだったけど、楽譜に落とせなかった。
録音して譜面に写すのが苦痛で苦痛で、半年ほどで
泣いて頼んでやめさせてもらった。
3歳からの投資が無駄になってしまった母はワナワナ怒って、
こんなことならヴァイオリンにするんだったわ、なぞと
しばらくの間ねちねちと恨み言を言っていた。
手術で指の股を切ってもらって長くする?
と真顔で問われたときには、ずいぶん怖かった。
まあ、そんな痛いことはできないと思った程度だったから、
もともとピアノへの熱意なんて、それほどなかったんだろうな、今にして思えば。
で、何が言いたかったかっていうと、
13歳、少なくとも14歳以降において、
それまでピアノに充てられていた時間は浮いたわけで。
そのあたりから歌番組を含むテレビを見るようにはなっていたかもしれない、
と思ったわけです。
明菜ちゃんの記憶は定かではないにしても、
チェッカーズとかアルフィーの坂崎さんとかは結構好きだったから。
ずいぶん前置きが長くなったけれども、
ここまできてやっと、Youtubeで明菜ちゃんを探して聞いてみる気になったわけですよ。
本の中のリストを見ながら、年代順に。
最初の頃は、なんだか聖子に似た顔つきをしているなあ、なんて思いながら
見ていたんだけれども、そのうち、ふんふん、とメロディーを追えることに気がついた。
なんと、2、3の例外を除いては鼻歌できちゃったんですね。
(相変わらず歌詞は出てこないんだけども、)
更にここまできてやっと気がついた。
私は中森明菜という人物のことを、ほとんど意識せずに、
時代の空気のように知っていたんだなあ、と。
TANGO NOIRのあの背骨が悪くなりそうな姿態を見ながら、
確かにこの人のことを「巫女さんみたい」と思ったことがあるのだった。
そのざらついた感触から、やはり私は女性歌手に対して
女の子らしい憧れめいたものを全く持ち合わせていなかったことも思い出していた。
女子校に通ってはいたけれど、それが嫌で嫌で仕方のない、
男の子みたいに愛想のない子だったから。
かえって、自殺未遂事件の後、ああ、この人もああ見えて
普通の女性だったんだな、と少し好感情を持った。
へんな話だけれど、
わたしは小学校から高校ぐらいまでの出来事を、あまり思い出せないのだ。
二十代半ばのある雨の日に自転車で転倒して眉間から大量出血した時に
脳障害でも起こしていて、記憶がいくばくか脱落したんじゃないか
と真剣に思うことがあるくらいなのだけれども。
著書の中で、音楽は生のメタファーだと言われていて、
確かに音楽も人間も時とともに変化していく。
だけど、中森明菜という人物と、久しく聞かなかったその音楽を今日聞いてみて、
十代の自分に流れていた空気を、少し取り戻せた気がする。
その感じは、めずらしく早朝に起きてガラス窓を開けたときに
すっと通り抜ける冷気のように新鮮で、
過去の自分と対話する糸口が見つかったような。
そして。
歌は終わり、現在の自分に立ち戻る。
負け犬、とか、おひとりさまというような、既存のカテゴリーでは捉えきれない
一人の女性としての生きざまを肯定してくれる、柔らかくてあたたかい眼差し、
それが小沼先生で。
ホールデンがなりたいと言った「ライ麦畑のキャッチャー」(崖に向かって何も知らずに突っ走ってる子供を落ちないようにつかまえてくれる、)の大人版みたいな、そういう先生だなあと、いつも思うのでありました。
(最近やっと村上訳を読み終わったところだから特にそう思うのかもしれないけれども)
★
今日はほかにもいろいろあったんですが。うーん。明日かなあ。
あ、あと、もろもろの錯誤により見当たらなかったメシアンの「恒星の呼び声」、
めでたく図書館で借りたCDで見つかりました。
恒星ったって星なんだからフランス語でetoileだろう、と思ったのが勘違いの根源で。
ホルンのソロなんてそうそうないんだから、
いくら耳と記憶力が悪くても間違うはずがないんだけど。
ほんとに早とちりと思い込みのカタマリで、救いようがない(苦笑)
Amazonで買おうかと迷っていたのだけれど、
やはり本屋で探す楽しみというのがあって、いつもの紀伊国屋で。
ジョビンの本も一緒に購入。
その題名からして、『発端は、中森明菜』。
明菜ちゃんが40歳になったのがきっかけだった、というお話は伺っていたのだけれど、
正直なところ、なぜに明菜なのかなあ、と思ってたわけです。
一読したあとも、
やっぱり私は明菜ちゃんのこと、そんなに熱烈に好きというほどでもなかったし、と。
もともと、ちびまる子が山口百恵を歌う、みたいに芸達者な真似をした記憶は一度もないし、
カラオケだって(昔も今も、年に数えるほどしか行かないけど)
女性歌手の歌はユーミンか渡辺美里ぐらいしか歌わないし。
そこで、どうしてまる子ちゃんみたいに
いかにも女の子らしい、可愛らしげなことをしなかったんだろう、
と考えてみるに。
たぶん、歌詞を覚えるのが苦手なんだね。
3歳から13歳ぐらいまではピアノをしていたから
メロディーラインはそれなりに覚えて鼻歌ぐらいはできるんだけど、
好きな歌でも、相当聞きこまないと歌詞が記憶できない。
そのせいで、歌謡曲なるものを真似して歌う、更に運痴だから振り真似なぞという芸当は、
はなからしようなんて気にはならなかったんだろうなあ。
あと、小学生の頃は、けっこう習い事で忙しくて
テレビ番組なんてあまり見なかった。
小学校にあがってからは吉祥寺のヤマハに通っていたし、
習字と公文、英語に絵画教室、高学年になったら塾にも行ったし。
歌番組を見ている暇なんてなくて、
学校でもマンガやアニメの話にはついていけてなかったし。
しかしながら。
12歳でヤマハのグループレッスンを卒業して
それまで担当していたシミズ先生が作曲の個人指導クラスの先生になっちゃったのと、
指が短くてピアノ奏者に向いてないという先生と母(と自分)が判断したのとで、
一つ年下のコバヤシシュンタロウ君という子と2人して、
無理やり作曲クラスに行かされる羽目になった。
んだけれど、残念ながら、私は楽譜が書けなかったんだな、これが!(笑)
読むのも苦手だったから、ある程度予期してはいたけれども。
テキトーに即興するのは好きだったけど、楽譜に落とせなかった。
録音して譜面に写すのが苦痛で苦痛で、半年ほどで
泣いて頼んでやめさせてもらった。
3歳からの投資が無駄になってしまった母はワナワナ怒って、
こんなことならヴァイオリンにするんだったわ、なぞと
しばらくの間ねちねちと恨み言を言っていた。
手術で指の股を切ってもらって長くする?
と真顔で問われたときには、ずいぶん怖かった。
まあ、そんな痛いことはできないと思った程度だったから、
もともとピアノへの熱意なんて、それほどなかったんだろうな、今にして思えば。
で、何が言いたかったかっていうと、
13歳、少なくとも14歳以降において、
それまでピアノに充てられていた時間は浮いたわけで。
そのあたりから歌番組を含むテレビを見るようにはなっていたかもしれない、
と思ったわけです。
明菜ちゃんの記憶は定かではないにしても、
チェッカーズとかアルフィーの坂崎さんとかは結構好きだったから。
ずいぶん前置きが長くなったけれども、
ここまできてやっと、Youtubeで明菜ちゃんを探して聞いてみる気になったわけですよ。
本の中のリストを見ながら、年代順に。
最初の頃は、なんだか聖子に似た顔つきをしているなあ、なんて思いながら
見ていたんだけれども、そのうち、ふんふん、とメロディーを追えることに気がついた。
なんと、2、3の例外を除いては鼻歌できちゃったんですね。
(相変わらず歌詞は出てこないんだけども、)
更にここまできてやっと気がついた。
私は中森明菜という人物のことを、ほとんど意識せずに、
時代の空気のように知っていたんだなあ、と。
TANGO NOIRのあの背骨が悪くなりそうな姿態を見ながら、
確かにこの人のことを「巫女さんみたい」と思ったことがあるのだった。
そのざらついた感触から、やはり私は女性歌手に対して
女の子らしい憧れめいたものを全く持ち合わせていなかったことも思い出していた。
女子校に通ってはいたけれど、それが嫌で嫌で仕方のない、
男の子みたいに愛想のない子だったから。
かえって、自殺未遂事件の後、ああ、この人もああ見えて
普通の女性だったんだな、と少し好感情を持った。
へんな話だけれど、
わたしは小学校から高校ぐらいまでの出来事を、あまり思い出せないのだ。
二十代半ばのある雨の日に自転車で転倒して眉間から大量出血した時に
脳障害でも起こしていて、記憶がいくばくか脱落したんじゃないか
と真剣に思うことがあるくらいなのだけれども。
著書の中で、音楽は生のメタファーだと言われていて、
確かに音楽も人間も時とともに変化していく。
だけど、中森明菜という人物と、久しく聞かなかったその音楽を今日聞いてみて、
十代の自分に流れていた空気を、少し取り戻せた気がする。
その感じは、めずらしく早朝に起きてガラス窓を開けたときに
すっと通り抜ける冷気のように新鮮で、
過去の自分と対話する糸口が見つかったような。
そして。
歌は終わり、現在の自分に立ち戻る。
負け犬、とか、おひとりさまというような、既存のカテゴリーでは捉えきれない
一人の女性としての生きざまを肯定してくれる、柔らかくてあたたかい眼差し、
それが小沼先生で。
ホールデンがなりたいと言った「ライ麦畑のキャッチャー」(崖に向かって何も知らずに突っ走ってる子供を落ちないようにつかまえてくれる、)の大人版みたいな、そういう先生だなあと、いつも思うのでありました。
(最近やっと村上訳を読み終わったところだから特にそう思うのかもしれないけれども)
★
今日はほかにもいろいろあったんですが。うーん。明日かなあ。
あ、あと、もろもろの錯誤により見当たらなかったメシアンの「恒星の呼び声」、
めでたく図書館で借りたCDで見つかりました。
恒星ったって星なんだからフランス語でetoileだろう、と思ったのが勘違いの根源で。
ホルンのソロなんてそうそうないんだから、
いくら耳と記憶力が悪くても間違うはずがないんだけど。
ほんとに早とちりと思い込みのカタマリで、救いようがない(苦笑)
朝にふさわしい話じゃないとは思うけど、
図書館に返却しちゃうから備忘のために。
R・シュトラウスの「四つの最後の歌」の中で
いちばん好きだなあとおもっていた曲
(もちろん歌詞は当然ながら、今のいままで題名さえも覚えていなかったわけだけど)
の歌詞カードを見たら、相変わらず和訳はピンとこないけど、
意味の響きがよさげだったから写しときます。
眠りゆくとき
一日の営みに私は疲れ果てた
私の切なる願いを、星のきらめく夜が
やさしく受け入れて欲しいものだ、
疲れた子供を抱き取るように。
手よ、一切の行為をやめるがよい、
額よ、一切の思考を忘れるがよい、
いま、私の感覚のすべては
ひたすら眠りに沈みたがっている。
そして魂は誰にも見張られることなく
自由な翼を張って漂おうとしている、
夜の魔術的な世界の中で
深く、千倍にも生きるために。
こっちの訳のほうがちょっとは良いかな。
(wikipediaより)
今は一日に疲れてしまった
私の熱い望みもすべて
喜んで星夜に屈しよう
疲れた子供のように
手よ、すべてをそのままにせよ
額よ、すべての想いを忘れよ
私のすべての感覚が今は
眠りに沈むことを望んでいる
そして、解き放たれた魂は
自由に飛び回りたがっている
夜の魔法の世界の中へ
深くそして千倍生きるために
うーーん。微妙。
英語のほうが、少しはましかなあ。
Now I am wearied of the day;
all my ardent desires shall
gladly succumb to the starry night
like a sleepy child.
Hands, stop all your work;
brow, forget all your thoughts;
all my being now
yearns to sink into sleep.
And the unchained spirit
wishes to fly up freely
into night's magic sphere
to live deeply and a thousandfold.
原文、読めないけど見つけたから一応。
Nun der Tag mich müd' gemacht,
soll mein sehnliches Verlangen
freundlich die gestirnte Nacht
wie ein müdes Kind empfangen.
Hände, laßt von allem Tun,
Stirn, vergiß du alles Denken,
alle meine Sinne nun
Wollen sich in Schlummer senken.
Und die Seele unbewacht,
Will in freien Flügen schweben,
Um im Zauberkreis der Nacht
tief und tausendfach zu leben.
Renee Fleming - Strauss Four Last Songs - Beim Schlafengehen
http://jp.youtube.com/watch?v=wJqwuFOU-Wk
さすがにBejartの動画は見当たらなかったです。残念。
図書館に返却しちゃうから備忘のために。
R・シュトラウスの「四つの最後の歌」の中で
いちばん好きだなあとおもっていた曲
(もちろん歌詞は当然ながら、今のいままで題名さえも覚えていなかったわけだけど)
の歌詞カードを見たら、相変わらず和訳はピンとこないけど、
意味の響きがよさげだったから写しときます。
眠りゆくとき
一日の営みに私は疲れ果てた
私の切なる願いを、星のきらめく夜が
やさしく受け入れて欲しいものだ、
疲れた子供を抱き取るように。
手よ、一切の行為をやめるがよい、
額よ、一切の思考を忘れるがよい、
いま、私の感覚のすべては
ひたすら眠りに沈みたがっている。
そして魂は誰にも見張られることなく
自由な翼を張って漂おうとしている、
夜の魔術的な世界の中で
深く、千倍にも生きるために。
こっちの訳のほうがちょっとは良いかな。
(wikipediaより)
今は一日に疲れてしまった
私の熱い望みもすべて
喜んで星夜に屈しよう
疲れた子供のように
手よ、すべてをそのままにせよ
額よ、すべての想いを忘れよ
私のすべての感覚が今は
眠りに沈むことを望んでいる
そして、解き放たれた魂は
自由に飛び回りたがっている
夜の魔法の世界の中へ
深くそして千倍生きるために
うーーん。微妙。
英語のほうが、少しはましかなあ。
Now I am wearied of the day;
all my ardent desires shall
gladly succumb to the starry night
like a sleepy child.
Hands, stop all your work;
brow, forget all your thoughts;
all my being now
yearns to sink into sleep.
And the unchained spirit
wishes to fly up freely
into night's magic sphere
to live deeply and a thousandfold.
原文、読めないけど見つけたから一応。
Nun der Tag mich müd' gemacht,
soll mein sehnliches Verlangen
freundlich die gestirnte Nacht
wie ein müdes Kind empfangen.
Hände, laßt von allem Tun,
Stirn, vergiß du alles Denken,
alle meine Sinne nun
Wollen sich in Schlummer senken.
Und die Seele unbewacht,
Will in freien Flügen schweben,
Um im Zauberkreis der Nacht
tief und tausendfach zu leben.
Renee Fleming - Strauss Four Last Songs - Beim Schlafengehen
http://jp.youtube.com/watch?v=wJqwuFOU-Wk
さすがにBejartの動画は見当たらなかったです。残念。
とても忙しい一週間だった。
社内で過労から脳卒中になって労災確定した人が出たせいで
(それで私が雇用されたわけだけど)
残業しないポリシーがしっかり定着している会社なので、
17時以降、1時間以上は残業できない雰囲気である。
でも、毎日毎日ぼくらは鉄板の、というか
受信メールの件数が増えるに伴って仕事が山積していく。
派遣になってから、
就業中こんなにスピードと責任におけるプレッシャーがかかるのは
生まれてはじめてぐらいの勢いである。
それでも最悪18時で上がれる環境はありがたい。
★
朝カル。
しばらくNatureを読むのをさぼっていた。
やっぱり概要を教えていただかないと歯が立たない。
Perceptual accuracy and conflicting effects of certainty on risk-taking behaviour。
不確実でも高報酬な選択肢と確実だが低報酬の選択肢があった場合、
前者を選べるか否かは認知の正確さによるのではないか、という論文。
こういう科学系の難しげな話を、面白いと思わせてくれるのは
私にとって今のところ茂木先生だけである。
今後は海外進出に力点を置かれるそうで、
せめて英語の著書や講演が理解できる程度の
英語力は身につけたいと切におもうのである。
創造性と「何を思い出せるか」の関係。
目的や脈絡なく、無意識の側からの要求によって
「なんか気になる」という状態にさせられたものを追いかける覚悟が
創造性に関わっているのではないかということ。
アダムスキの態度をクリエイティブと見るかどうか、
プロフェッショナルご出演の看護師田村さんの涙、
そしてカントの言葉、などなど。
以下、Webで適当に探してきたカントの言葉を孫引き。
「事実的内容をもたぬ概念は空虚である。また概念なき感覚所与は盲目である。感性は考えることができない。悟性は見ることができない。両者の結合によってはじめて知識が生まれる」
「エスセティックス(美学)とは「感官的知覚の諸条件を扱う科学」
「我々の心意識の受容性は、心意識がなんらかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受けとる能力である。そこで我々がこの受容性を感性と名づけるならば、これに対してみずから表象を生みだす能力、即ち認識の自発性は悟性である。我々の直感が感性的直感以外のものであり得ないということ、換言すれば、我々が対象から触発される仕方以外のものを含まないということは、我々人間の自然的本性の必然的な在り方である。これに反して、感性的直感の対象を思惟する能力は悟性である。感性と悟性……この二つの特性は、そのいずれかを他にまさっているとすることはできない。感性がなければ対象は我々に与えられないだろうし、また悟性がなければいかなる対象も思惟されないだろう。内容のない思惟〔直感のない概念〕は空虚だし、また概念のない直感は盲目である。それだから対象の概念を感性化する(即ち対象の概念に、直感された対象を与える)のも、また対象の直感を悟性化する(即ち対象の直感をそれぞれの概念のもとに按排する)のも、両つながら等しく必要なことである。この両つの能力或は特有な力は、各自の能力を互に交換することはできない。悟性はなにものをも直感し得ないし、また感性はなにものをも思惟できない。この両者が結合してのみ、認識が生じ得るのである。(B75、カント『純粋理性批判』岩波文庫、1961、上巻P.124)」
ヴェニスに死す、ローエングリンのラストにおける
もうなんとも言いようのない胸をつかれる思いは
感性と理性、理想と現実、生と死、その双方が一つのシーンに
おさまること、連結することによって生じる
引き裂かれるような断絶感でもあり、
それが人間の真実に近いものであるにちがいない。
ほぼ2年弱の間、お話を伺ったり本を読んだりして
先生の語り口みたいなものには少し慣れてきた感があるんだけれども、
いやいやどうして、自分は何も分かっちゃいないし、
やっぱり先生はすごいんだよなあ、と、あらためて。
社内で過労から脳卒中になって労災確定した人が出たせいで
(それで私が雇用されたわけだけど)
残業しないポリシーがしっかり定着している会社なので、
17時以降、1時間以上は残業できない雰囲気である。
でも、毎日毎日ぼくらは鉄板の、というか
受信メールの件数が増えるに伴って仕事が山積していく。
派遣になってから、
就業中こんなにスピードと責任におけるプレッシャーがかかるのは
生まれてはじめてぐらいの勢いである。
それでも最悪18時で上がれる環境はありがたい。
★
朝カル。
しばらくNatureを読むのをさぼっていた。
やっぱり概要を教えていただかないと歯が立たない。
Perceptual accuracy and conflicting effects of certainty on risk-taking behaviour。
不確実でも高報酬な選択肢と確実だが低報酬の選択肢があった場合、
前者を選べるか否かは認知の正確さによるのではないか、という論文。
こういう科学系の難しげな話を、面白いと思わせてくれるのは
私にとって今のところ茂木先生だけである。
今後は海外進出に力点を置かれるそうで、
せめて英語の著書や講演が理解できる程度の
英語力は身につけたいと切におもうのである。
創造性と「何を思い出せるか」の関係。
目的や脈絡なく、無意識の側からの要求によって
「なんか気になる」という状態にさせられたものを追いかける覚悟が
創造性に関わっているのではないかということ。
アダムスキの態度をクリエイティブと見るかどうか、
プロフェッショナルご出演の看護師田村さんの涙、
そしてカントの言葉、などなど。
以下、Webで適当に探してきたカントの言葉を孫引き。
「事実的内容をもたぬ概念は空虚である。また概念なき感覚所与は盲目である。感性は考えることができない。悟性は見ることができない。両者の結合によってはじめて知識が生まれる」
「エスセティックス(美学)とは「感官的知覚の諸条件を扱う科学」
「我々の心意識の受容性は、心意識がなんらかの仕方で触発される限りにおいて、表象を受けとる能力である。そこで我々がこの受容性を感性と名づけるならば、これに対してみずから表象を生みだす能力、即ち認識の自発性は悟性である。我々の直感が感性的直感以外のものであり得ないということ、換言すれば、我々が対象から触発される仕方以外のものを含まないということは、我々人間の自然的本性の必然的な在り方である。これに反して、感性的直感の対象を思惟する能力は悟性である。感性と悟性……この二つの特性は、そのいずれかを他にまさっているとすることはできない。感性がなければ対象は我々に与えられないだろうし、また悟性がなければいかなる対象も思惟されないだろう。内容のない思惟〔直感のない概念〕は空虚だし、また概念のない直感は盲目である。それだから対象の概念を感性化する(即ち対象の概念に、直感された対象を与える)のも、また対象の直感を悟性化する(即ち対象の直感をそれぞれの概念のもとに按排する)のも、両つながら等しく必要なことである。この両つの能力或は特有な力は、各自の能力を互に交換することはできない。悟性はなにものをも直感し得ないし、また感性はなにものをも思惟できない。この両者が結合してのみ、認識が生じ得るのである。(B75、カント『純粋理性批判』岩波文庫、1961、上巻P.124)」
ヴェニスに死す、ローエングリンのラストにおける
もうなんとも言いようのない胸をつかれる思いは
感性と理性、理想と現実、生と死、その双方が一つのシーンに
おさまること、連結することによって生じる
引き裂かれるような断絶感でもあり、
それが人間の真実に近いものであるにちがいない。
ほぼ2年弱の間、お話を伺ったり本を読んだりして
先生の語り口みたいなものには少し慣れてきた感があるんだけれども、
いやいやどうして、自分は何も分かっちゃいないし、
やっぱり先生はすごいんだよなあ、と、あらためて。
ペンデレツキに会いにいく。
やっぱり気になるひとにはナマで会っておかないと、とおもう。
まあ今回は当然ながら、会うといったって
指揮棒を振っている姿を3階から眺めただけだったけれども。
演目
ペンデレツキ:弦楽のための小交響曲
ペンデレツキ:ホルンと管弦楽のための協奏曲「ヴィンターライゼ」
(ヴラトコヴィチ ホルンソロによるメシアン:峡谷より星たちへ)
メンデルスゾーン:交響曲3番「スコットランド」
個人的にはとても満たされた時間だった。
んだけれども、あれやこれや考えたけれどうまく言葉がみつからないので
ひどくつまらないけどこれだけで。
帰宅してからメシアンをいくつか試聴して探してみたんだけれども、
結局どれを演奏されたんだか、よく分からなかった。
よほど耳と記憶力が悪いとみえる、、
みんな撮ってたから真似して写真を。
素敵なタイトル。
こうやってブログにアップしている人がたくさんいるんだろーな。

どうもつまらない。
表現力のげんかい。
★
頭の中の気分はあまりよくないんだけれども
体調としてはめずらしく快適に目覚めた。
実は昨夜からitunesがつけっぱなしになっていて、
グールドのバッハから、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、
ジャレットのモーツァルトとかコンサートのいくつかを
眠りながら聴いていたらしい。
これで快適な朝を迎えられるなら
毎晩つけっぱなしにしておきたいけど、、
やっぱり気になるひとにはナマで会っておかないと、とおもう。
まあ今回は当然ながら、会うといったって
指揮棒を振っている姿を3階から眺めただけだったけれども。
演目
ペンデレツキ:弦楽のための小交響曲
ペンデレツキ:ホルンと管弦楽のための協奏曲「ヴィンターライゼ」
(ヴラトコヴィチ ホルンソロによるメシアン:峡谷より星たちへ)
メンデルスゾーン:交響曲3番「スコットランド」
個人的にはとても満たされた時間だった。
んだけれども、あれやこれや考えたけれどうまく言葉がみつからないので
ひどくつまらないけどこれだけで。
帰宅してからメシアンをいくつか試聴して探してみたんだけれども、
結局どれを演奏されたんだか、よく分からなかった。
よほど耳と記憶力が悪いとみえる、、
みんな撮ってたから真似して写真を。
素敵なタイトル。
こうやってブログにアップしている人がたくさんいるんだろーな。

どうもつまらない。
表現力のげんかい。
★
頭の中の気分はあまりよくないんだけれども
体調としてはめずらしく快適に目覚めた。
実は昨夜からitunesがつけっぱなしになっていて、
グールドのバッハから、ベートーヴェンの後期弦楽四重奏曲、
ジャレットのモーツァルトとかコンサートのいくつかを
眠りながら聴いていたらしい。
これで快適な朝を迎えられるなら
毎晩つけっぱなしにしておきたいけど、、
バジ・アサドで探してみたら、おまけに(?)ビリムバウもついてきました。
ほとんど釣りをしているおじさんにしか見えません。
百聞一見というか。世のなか、たのしい楽器があるものですね、先生。
おまけに、授業で聴いていたときは、
弦楽器と金属っぽいパーカッションか、とにかく2つの楽器で出している音だと思ってたのが
実は一つの、ビリムバウから出ている音だったと分かって、びっくり。
ヨーヨーマと共演してます、Assad brothers。ビリムバウ登場。
http://jp.youtube.com/watch?v=rBB9_JM-n1g
Ai Que Saudade D'ocê - (Impossible vocal)! Badi Assad
http://jp.youtube.com/watch?v=CBMe9foIuR0
Sergio and Odair Assad - Andante/Allegro from "Tango Suite"
http://jp.youtube.com/watch?v=n60V6ukmJog
ほとんど釣りをしているおじさんにしか見えません。
百聞一見というか。世のなか、たのしい楽器があるものですね、先生。
おまけに、授業で聴いていたときは、
弦楽器と金属っぽいパーカッションか、とにかく2つの楽器で出している音だと思ってたのが
実は一つの、ビリムバウから出ている音だったと分かって、びっくり。
ヨーヨーマと共演してます、Assad brothers。ビリムバウ登場。
http://jp.youtube.com/watch?v=rBB9_JM-n1g
Ai Que Saudade D'ocê - (Impossible vocal)! Badi Assad
http://jp.youtube.com/watch?v=CBMe9foIuR0
Sergio and Odair Assad - Andante/Allegro from "Tango Suite"
http://jp.youtube.com/watch?v=n60V6ukmJog
ツタヤでほかのCDを探している間にたまたま試聴したRodrigo y Gabriela。
Youtubeで見つけたのでのっけときます。
ふたりとも、すんごい超絶技巧。
Diablo Rojo
http://jp.youtube.com/watch?v=-lvMQCmUVv8&feature=related
Tamacun
http://jp.youtube.com/watch?v=9KBgg-hrtyo&feature=related
Stairway to Heaven
http://jp.youtube.com/watch?v=vNc5o9TU0t0&feature=related
Youtubeで見つけたのでのっけときます。
ふたりとも、すんごい超絶技巧。
Diablo Rojo
http://jp.youtube.com/watch?v=-lvMQCmUVv8&feature=related
Tamacun
http://jp.youtube.com/watch?v=9KBgg-hrtyo&feature=related
Stairway to Heaven
http://jp.youtube.com/watch?v=vNc5o9TU0t0&feature=related
ウチダ先生に会いに行く。
じかにお話を聴くのは初めて。サインもいただいた。うれし。
主催は東本願寺。一応卒論は浄土真宗で書きました。はは。すごい昔の話。
先生は想像よりもずっと、強そうだった。
(あたりまえだよね、武道家でいらっしゃるわけだし。)
秋葉原事件から、記号化、喪の儀礼、格差社会、数値化、
霊的なもの、呪いの言葉、国褒め、などなど。
現代人の表現が、無意識のうちに呪いの言葉になっているのではないか、
価値を記号化、数値化できるという思想が流布することによって、
いまだ記号化、数値化していないシグナルを受信する力が
低下しているのではないか、とか。
誰かが作った物語に知らず知らずのうちに巻き込まれて
まるで自分の言葉のように語っている自分にまず気づくこと。
身の回りのことどもを、既存のnarrativeに流しこまずに、エンドレスに見つづけること。
対象と鳴動するするような見方をすること。
目の前のものに入り込むような、またはそれが自分の中に入り込んでくるような。
そして、それを詳細に記述すること。
生活のリズムを少しスローにすること。
そのあたりが、呪いの言葉をひとつひとつ、祝福に変えていくために
まず自分がしていきたいことかな、と。
親がわが子にしてやれること、
度をこえたえこひいき、たとえ世の中が全て敵になったとしても味方だと
子供に知らせてやること、
自分のせいで親が不幸なのではないかと思わせないために、常にゴキゲンであること。
子供はいないし予定もないけれども、
とてもぐっときた。
(というようなチープな言葉しか出てこないのが歯がゆいけれども、)
やっぱり内田先生はいいひとだった。
(ブログを読んでいるだけでもじゅうぶん、きっといいひとに違いないと思っていたのだけれども、
最後のところ、やっぱりじかにお話を聞いてみないと確信が持てなくて。)
お会いできてよかった。
★
三谷さん、好きっ。
住友ビルからの帰り道、マジックアワーをやっと見た。
日本人て映画館で笑わない人が多いような気がしていたけど、
めずらしく、館内のあちこちでくすくす笑いが始まり、
次第にこらえきれなくなってきて、みんな笑ってた。
現実と虚構が一つの空間に共存しているのがこんなに面白いとは。
この設定だけで既に天才ですね。
じかにお話を聴くのは初めて。サインもいただいた。うれし。
主催は東本願寺。一応卒論は浄土真宗で書きました。はは。すごい昔の話。
先生は想像よりもずっと、強そうだった。
(あたりまえだよね、武道家でいらっしゃるわけだし。)
秋葉原事件から、記号化、喪の儀礼、格差社会、数値化、
霊的なもの、呪いの言葉、国褒め、などなど。
現代人の表現が、無意識のうちに呪いの言葉になっているのではないか、
価値を記号化、数値化できるという思想が流布することによって、
いまだ記号化、数値化していないシグナルを受信する力が
低下しているのではないか、とか。
誰かが作った物語に知らず知らずのうちに巻き込まれて
まるで自分の言葉のように語っている自分にまず気づくこと。
身の回りのことどもを、既存のnarrativeに流しこまずに、エンドレスに見つづけること。
対象と鳴動するするような見方をすること。
目の前のものに入り込むような、またはそれが自分の中に入り込んでくるような。
そして、それを詳細に記述すること。
生活のリズムを少しスローにすること。
そのあたりが、呪いの言葉をひとつひとつ、祝福に変えていくために
まず自分がしていきたいことかな、と。
親がわが子にしてやれること、
度をこえたえこひいき、たとえ世の中が全て敵になったとしても味方だと
子供に知らせてやること、
自分のせいで親が不幸なのではないかと思わせないために、常にゴキゲンであること。
子供はいないし予定もないけれども、
とてもぐっときた。
(というようなチープな言葉しか出てこないのが歯がゆいけれども、)
やっぱり内田先生はいいひとだった。
(ブログを読んでいるだけでもじゅうぶん、きっといいひとに違いないと思っていたのだけれども、
最後のところ、やっぱりじかにお話を聞いてみないと確信が持てなくて。)
お会いできてよかった。
★
三谷さん、好きっ。
住友ビルからの帰り道、マジックアワーをやっと見た。
日本人て映画館で笑わない人が多いような気がしていたけど、
めずらしく、館内のあちこちでくすくす笑いが始まり、
次第にこらえきれなくなってきて、みんな笑ってた。
現実と虚構が一つの空間に共存しているのがこんなに面白いとは。
この設定だけで既に天才ですね。
今週は長いようで短かった。
帰宅するとポストにジョビン、ヴィニシウスをうたう、が届いていた。
どうもむかしから、詩とか歌詞とかいうものにちょっと苦手意識を持っていて、
音楽に歌詞がついていても、殆ど覚えていない。
音韻重視の意味不明な言葉を聞き流しているほうが心地よい。
月曜の授業以来ちょっと浸っているだけというボサノヴァ歴の浅い人間の
ごく個人的意見だけれども、
ボサノヴァのすごいところは
声と音楽の境界線が曖昧なところだとおもいつつある。
ささやきが音楽で、
音楽がささやいているようでもある。
正直なところ、このCDも歌詞を和訳したものは二字熟語が多くて
ちょっとピンとこない。
意味不明の低いささやきと旋律が
静かにたゆたっている、ただそれだけでいい、と思う。
聞き終わってしばらくぼんやりしていたのだけれど、
立ち上がったとき、ふと肩のあたりが軽くなったような気がした。
自分の身体になじむ音楽があり食事があり、生活がある、という、
ごくあたりまえのことが、
身体の発する声に耳を傾けようとして初めて
あくまで漠然として方向性としてだけれども、わかりそうな気がしている。
療法、などと大袈裟なことを言うまでもなく、
聞いたあとに自然と笑みがこぼれる音楽もあれば
身体がラクになる音楽もあって、
とりあえず今わかるのは、
確かに、この束の間の幸せのために
一週間がんばったのかもしれない、
これが貧しき者のシアワセってヤツかもしれない、
ってこと。
★
おまけ。
いまテレビをつけたらマトリックスをやっていて、
これって今さらだけど、決定論とFreewillの話だったのね。
帰宅するとポストにジョビン、ヴィニシウスをうたう、が届いていた。
どうもむかしから、詩とか歌詞とかいうものにちょっと苦手意識を持っていて、
音楽に歌詞がついていても、殆ど覚えていない。
音韻重視の意味不明な言葉を聞き流しているほうが心地よい。
月曜の授業以来ちょっと浸っているだけというボサノヴァ歴の浅い人間の
ごく個人的意見だけれども、
ボサノヴァのすごいところは
声と音楽の境界線が曖昧なところだとおもいつつある。
ささやきが音楽で、
音楽がささやいているようでもある。
正直なところ、このCDも歌詞を和訳したものは二字熟語が多くて
ちょっとピンとこない。
意味不明の低いささやきと旋律が
静かにたゆたっている、ただそれだけでいい、と思う。
聞き終わってしばらくぼんやりしていたのだけれど、
立ち上がったとき、ふと肩のあたりが軽くなったような気がした。
自分の身体になじむ音楽があり食事があり、生活がある、という、
ごくあたりまえのことが、
身体の発する声に耳を傾けようとして初めて
あくまで漠然として方向性としてだけれども、わかりそうな気がしている。
療法、などと大袈裟なことを言うまでもなく、
聞いたあとに自然と笑みがこぼれる音楽もあれば
身体がラクになる音楽もあって、
とりあえず今わかるのは、
確かに、この束の間の幸せのために
一週間がんばったのかもしれない、
これが貧しき者のシアワセってヤツかもしれない、
ってこと。
★
おまけ。
いまテレビをつけたらマトリックスをやっていて、
これって今さらだけど、決定論とFreewillの話だったのね。
久しぶりにツタヤに行く(きのう)。
ぼうっと歩いていると、どうやら授業で言われていたのはこれかしら、
と思われるThis is BOSSA NOVA を発見。
若干残業したせいか、はたまた夕飯をたらふく食べたせいか、
前半はうつらうつらしていたのだけれど、
ちょうどジョビンとヴィニシウスが出てきたあたりで
おめめぱっちり(これは今日)
イパネマの海の青。
あんな明るい土地で、こんな静かでやさしく秘めやかな歌が生まれたなんて。
ボサノヴァの囁きに慣れてしまうと、クラシックとかオペラとか、
ちょっと頭に響きすぎてしまう。
★
おまけ。
最近なかなかだった映画/DVD。
長江哀歌
(書いたっけ。忘れちゃった。これまた静かな映画なので中盤、一瞬睡魔が、、でもラストがよかったので1票)
ONCE ダブリンの街角で
(ダブリンてどんな場所かしら、と思って見たけれど、街の景色が分かるようなシーンはあまりなくて、予想外にも主人公2人それぞれの心境と音楽ができあがっていくプロセスとの絡み具合が上手い)
明日は珍しく客先で話さないといけないので、さっさと休みます。
おやすみなさい。
ぼうっと歩いていると、どうやら授業で言われていたのはこれかしら、
と思われるThis is BOSSA NOVA を発見。
若干残業したせいか、はたまた夕飯をたらふく食べたせいか、
前半はうつらうつらしていたのだけれど、
ちょうどジョビンとヴィニシウスが出てきたあたりで
おめめぱっちり(これは今日)
イパネマの海の青。
あんな明るい土地で、こんな静かでやさしく秘めやかな歌が生まれたなんて。
ボサノヴァの囁きに慣れてしまうと、クラシックとかオペラとか、
ちょっと頭に響きすぎてしまう。
★
おまけ。
最近なかなかだった映画/DVD。
長江哀歌
(書いたっけ。忘れちゃった。これまた静かな映画なので中盤、一瞬睡魔が、、でもラストがよかったので1票)
ONCE ダブリンの街角で
(ダブリンてどんな場所かしら、と思って見たけれど、街の景色が分かるようなシーンはあまりなくて、予想外にも主人公2人それぞれの心境と音楽ができあがっていくプロセスとの絡み具合が上手い)
明日は珍しく客先で話さないといけないので、さっさと休みます。
おやすみなさい。
聴講。
ボサノヴァにおける混血性/多声性の読み解きかたを
イパネマの娘などを通して教えていただく。
言語、パートの絡みぐあい、息遣い、といった
空気のごときものにするりと入ってしまうと、
なるほど、音楽というものが、もっと「聴こえ」てくるのだった。
帰宅後、アップルでジョビンを大人買い、というほどでもないか(笑)
★
先週は休んじゃったので、今週はまっとうに仕事しないと。
がんばれてまり。
ボサノヴァにおける混血性/多声性の読み解きかたを
イパネマの娘などを通して教えていただく。
言語、パートの絡みぐあい、息遣い、といった
空気のごときものにするりと入ってしまうと、
なるほど、音楽というものが、もっと「聴こえ」てくるのだった。
帰宅後、アップルでジョビンを大人買い、というほどでもないか(笑)
★
先週は休んじゃったので、今週はまっとうに仕事しないと。
がんばれてまり。
アンジェイ・ワイダ監督のドキュメンタリーを見た。
少し前、ネットを検索していて最新作『カティン』に関する情報にたどり着いたのは、たしかペンデレツキを調べていたときで、監督の名前に聞き覚えがあったから1時間ぐらいはまじめに見ていたと思う。
ポーランドへの関心はほとんど「Everything is illuminated」以降に始まっていて、あの小説さえも全部読み通したわけではないのだけれどもイライジャ・ウッドの出ていた映画は見たりと、途切れ途切れに続いていた。
ワイダ監督の凄まじさは、共産主義政府の検閲をスルーして作品を上映までこぎつけるという熱意に既に表現されていて、もうそこに何かコメントできるような資格は私のような生ぬるい人間にはない。
敢えてそのような重い問題に関連するエントリーをするのは、ちょうど考えていた多声性に関するヒントを得たからだった。
「灰とダイヤモンド」は、ワルシャワ蜂起を題材とした作品で、反共テロリストのマチェックは、ゴミ捨て場で殺害されるという最期を迎える。
今も残る検閲会議の文書から、このラストは政府側に賞賛されたという。
監督としては、スルーしなければ上映できないための苦渋の選択だったのかとも考えられるこの場面は実は別の意味を含んでいて、反共主義に賛同する人たちにはこのラストは共感を得るに違いないとの確信があったという。
2つの全く逆の立場の人間が共感を覚える作品があり得るということ、それを撮影しなければならなかったという制約はあったにしろ、そこから名作が誕生したという事実は、多声性という概念を考える上でひとつの大きなヒントとなった。
この映画が監督としての自分を作ってくれたというワイダ監督のコメントを聞きながら、そんなことをかんがえていた。
少し前、ネットを検索していて最新作『カティン』に関する情報にたどり着いたのは、たしかペンデレツキを調べていたときで、監督の名前に聞き覚えがあったから1時間ぐらいはまじめに見ていたと思う。
ポーランドへの関心はほとんど「Everything is illuminated」以降に始まっていて、あの小説さえも全部読み通したわけではないのだけれどもイライジャ・ウッドの出ていた映画は見たりと、途切れ途切れに続いていた。
ワイダ監督の凄まじさは、共産主義政府の検閲をスルーして作品を上映までこぎつけるという熱意に既に表現されていて、もうそこに何かコメントできるような資格は私のような生ぬるい人間にはない。
敢えてそのような重い問題に関連するエントリーをするのは、ちょうど考えていた多声性に関するヒントを得たからだった。
「灰とダイヤモンド」は、ワルシャワ蜂起を題材とした作品で、反共テロリストのマチェックは、ゴミ捨て場で殺害されるという最期を迎える。
今も残る検閲会議の文書から、このラストは政府側に賞賛されたという。
監督としては、スルーしなければ上映できないための苦渋の選択だったのかとも考えられるこの場面は実は別の意味を含んでいて、反共主義に賛同する人たちにはこのラストは共感を得るに違いないとの確信があったという。
2つの全く逆の立場の人間が共感を覚える作品があり得るということ、それを撮影しなければならなかったという制約はあったにしろ、そこから名作が誕生したという事実は、多声性という概念を考える上でひとつの大きなヒントとなった。
この映画が監督としての自分を作ってくれたというワイダ監督のコメントを聞きながら、そんなことをかんがえていた。
久しぶりにアマゾンで注文。
お急ぎ便を試したら、午前に注文したものが17時には届いている。
便利な世のなかである。
中身は朝カルでおそわったOxford出版のFree will、
同じvery short introductionシリーズほか2冊と
関川夏央『新装版ソウルの練習問題』で、これがおもしろい。
図書館で『父・こんなこと』を借りる。
幸田文の文章は、たしか高校の頃国語の教材として使われたおぼえがある。
先生は50代も過ぎた短い白髪にパーマをかけた、
背も高く横幅も相当な恰幅のシスターだった(と思う)。
同年輩に見えるシスターたちのようにベールや衣装はつけておらず
普通の洋服に薬指のリングだけで、
そのあたり、カトリックの組織はよく分からないと思ったものだった。
いや、現代国語はもう一人若い先生がいたから、そちらだっただろうか。
彼女はフレンドリーかつオタクっぽい、大学を出たばかりの
(いや、院だっただろうか、なにしろ上智の)女性で、
大槻文彦氏の大言海編纂の手伝いをしていた。
聞いたことのない花の名前を漢字で列挙してプリントし、
ときどきおまけのように試験問題に出しては得々と解説して楽しんでいた。
どちらの先生も、教科書を教えるだけではつまらないと思っていたらしく、
必須のところだけさっさと終わらせて、自前のプリントで授業していた。
そのプリントの中のひとつが、幸田文の『父・こんなこと』の中の一部であったと思う。
いや、教科書そのものに載っていたのだったか。
いま読みながらどの部分が教材になっていたかと思い出そうとしているが、さっぱりで、
すべてが朦朧たる霧の中にあるようだ。
しばらく放置していた『村上春樹にご用心』を読む。
私が数日来わからんわからん、と言っていたことについて
これだけ読んで分からないとは言わせない、というぐらい集中的に
「うなぎと倍音」あたりに書いてある。
おお、そうか、と、分かったようなつもりになる。
きっと「つもり」であることは読者たる本人がよく分かっている。
でも、内田センセイは分からん奴にも一応門戸を開いてくださっているのは
以下のような文章において伺い知ることができる。
「「頭で読んでも分からない」難解きわまりない文章でも、「分からない分からない」と呻きながら毎日読んでいると、しだいに文章のリズムというかピッチというか、そういうフィジカルなものにこちらの身体がなじんでくる。すると、「理解できる」というより、次に何を言うかわかる感じがする。これは常識的ではない。次に何を言うかがわかるのは、ふつうは今相手の言っていることが理解できる場合に限られる。常識的にはそうだ。今相手の言っている言葉が理解できていないのに、どうして次に何を言うかが予測できるはずがあるだろうか。しかし、理解を超えるものを理解するという「離れ業」は、たぶんそういうふうに時間を逆行するようなかたちでしか到成しないのだ。なぜだか知らないけれど。」
(『村上春樹にご用心』内田樹より引用)
「「これは分かりにくい話です」と書いた当人が言っている言葉を現に理解できている以上、この「分かりにくい話」も決して理解の埒外ということではないということについて、読者は今しばらく確信を維持することができる」(『村上春樹にご用心』内田樹より引用)
と、しばらく身体で読んでみようかという気にさせていただくのである。
「というわけで、マス・メディアの「マス」たる所以を担保するのは、ヴォイスの複数性であり、ヴォイスの複数性を統御するのは、身体化した美であるという理路に私は至りついたのである。おわかりいただけるであろうか。
おわかりいただけないですよね。」(内田先生ブログより引用)
と、このようにコミュニケーションプラットフォームが完備された文章につられて
ついつい私は幸田文を読み、関川夏央を読んでしまう。
このような「つられ」現象は、現状あとお二方の先生に同時並列的に走っているのであって、
わたしは忙しい。ひじょうに忙しい。
会社になんか行ってられるか、と時々おもってしまうんである。
お急ぎ便を試したら、午前に注文したものが17時には届いている。
便利な世のなかである。
中身は朝カルでおそわったOxford出版のFree will、
同じvery short introductionシリーズほか2冊と
関川夏央『新装版ソウルの練習問題』で、これがおもしろい。
図書館で『父・こんなこと』を借りる。
幸田文の文章は、たしか高校の頃国語の教材として使われたおぼえがある。
先生は50代も過ぎた短い白髪にパーマをかけた、
背も高く横幅も相当な恰幅のシスターだった(と思う)。
同年輩に見えるシスターたちのようにベールや衣装はつけておらず
普通の洋服に薬指のリングだけで、
そのあたり、カトリックの組織はよく分からないと思ったものだった。
いや、現代国語はもう一人若い先生がいたから、そちらだっただろうか。
彼女はフレンドリーかつオタクっぽい、大学を出たばかりの
(いや、院だっただろうか、なにしろ上智の)女性で、
大槻文彦氏の大言海編纂の手伝いをしていた。
聞いたことのない花の名前を漢字で列挙してプリントし、
ときどきおまけのように試験問題に出しては得々と解説して楽しんでいた。
どちらの先生も、教科書を教えるだけではつまらないと思っていたらしく、
必須のところだけさっさと終わらせて、自前のプリントで授業していた。
そのプリントの中のひとつが、幸田文の『父・こんなこと』の中の一部であったと思う。
いや、教科書そのものに載っていたのだったか。
いま読みながらどの部分が教材になっていたかと思い出そうとしているが、さっぱりで、
すべてが朦朧たる霧の中にあるようだ。
しばらく放置していた『村上春樹にご用心』を読む。
私が数日来わからんわからん、と言っていたことについて
これだけ読んで分からないとは言わせない、というぐらい集中的に
「うなぎと倍音」あたりに書いてある。
おお、そうか、と、分かったようなつもりになる。
きっと「つもり」であることは読者たる本人がよく分かっている。
でも、内田センセイは分からん奴にも一応門戸を開いてくださっているのは
以下のような文章において伺い知ることができる。
「「頭で読んでも分からない」難解きわまりない文章でも、「分からない分からない」と呻きながら毎日読んでいると、しだいに文章のリズムというかピッチというか、そういうフィジカルなものにこちらの身体がなじんでくる。すると、「理解できる」というより、次に何を言うかわかる感じがする。これは常識的ではない。次に何を言うかがわかるのは、ふつうは今相手の言っていることが理解できる場合に限られる。常識的にはそうだ。今相手の言っている言葉が理解できていないのに、どうして次に何を言うかが予測できるはずがあるだろうか。しかし、理解を超えるものを理解するという「離れ業」は、たぶんそういうふうに時間を逆行するようなかたちでしか到成しないのだ。なぜだか知らないけれど。」
(『村上春樹にご用心』内田樹より引用)
「「これは分かりにくい話です」と書いた当人が言っている言葉を現に理解できている以上、この「分かりにくい話」も決して理解の埒外ということではないということについて、読者は今しばらく確信を維持することができる」(『村上春樹にご用心』内田樹より引用)
と、しばらく身体で読んでみようかという気にさせていただくのである。
「というわけで、マス・メディアの「マス」たる所以を担保するのは、ヴォイスの複数性であり、ヴォイスの複数性を統御するのは、身体化した美であるという理路に私は至りついたのである。おわかりいただけるであろうか。
おわかりいただけないですよね。」(内田先生ブログより引用)
と、このようにコミュニケーションプラットフォームが完備された文章につられて
ついつい私は幸田文を読み、関川夏央を読んでしまう。
このような「つられ」現象は、現状あとお二方の先生に同時並列的に走っているのであって、
わたしは忙しい。ひじょうに忙しい。
会社になんか行ってられるか、と時々おもってしまうんである。
都民税の通知を見てやっと、ああ労働せねばという気をおこす。
さもしい。
しかし、もう少しばかりは生きておりたいと思うし。
マルクスは共産主義を標榜したのに資産家だったというし。
世のなかは矛盾しているという言葉に
首を縦にふるようになったのは、いったいいつからだろう。
たんなる諦念であれば、それまたつまらぬ。
内田先生ブログでこのところコメントされている
自分の中の複数の他者、複数的パロールとは
いかに作動するものなのか。
いわゆるロールモデル思考法みたいなものとも
また少し違う気がするし、わたしのようにああでもないこうでもないと
言っているのとも全く違うだろうことだけはよく分かる。
やっぱりよく分からない。
身体性のからむ問題の多くは暗黙知の領域で言葉には乗りにくい。
とはいえ、言葉にならないものは考えられないとも言うしね。
朝カルでいわれていたところの
精神が世界を形成するというのとは逆の、
物質から精神が形成される、という方向性の話なんだろうなと雑駁な理解をしてお茶を濁す。
なんとかなりませんかね、この凡々たるおツムは。
さっき作動が茶道と変換されて思い出したけれど、
夕方、某JR駅構内で千宗屋さんを見かけたのだ。
着物をきていらしたし、きっとホンモノだとおもう。
だからどうした、というわけでもないけれども。
もしスーツだったら気づかなかっただろうなあ。
ふだん着物を着てるひとって、すてきかもしれない。
さもしい。
しかし、もう少しばかりは生きておりたいと思うし。
マルクスは共産主義を標榜したのに資産家だったというし。
世のなかは矛盾しているという言葉に
首を縦にふるようになったのは、いったいいつからだろう。
たんなる諦念であれば、それまたつまらぬ。
内田先生ブログでこのところコメントされている
自分の中の複数の他者、複数的パロールとは
いかに作動するものなのか。
いわゆるロールモデル思考法みたいなものとも
また少し違う気がするし、わたしのようにああでもないこうでもないと
言っているのとも全く違うだろうことだけはよく分かる。
やっぱりよく分からない。
身体性のからむ問題の多くは暗黙知の領域で言葉には乗りにくい。
とはいえ、言葉にならないものは考えられないとも言うしね。
朝カルでいわれていたところの
精神が世界を形成するというのとは逆の、
物質から精神が形成される、という方向性の話なんだろうなと雑駁な理解をしてお茶を濁す。
なんとかなりませんかね、この凡々たるおツムは。
さっき作動が茶道と変換されて思い出したけれど、
夕方、某JR駅構内で千宗屋さんを見かけたのだ。
着物をきていらしたし、きっとホンモノだとおもう。
だからどうした、というわけでもないけれども。
もしスーツだったら気づかなかっただろうなあ。
ふだん着物を着てるひとって、すてきかもしれない。
はずみで本日も休業(スイマセン)。
このところ、いかに焼きそばを「さわやかに」いただくかに
腐心していた(というほどでもない)のだが、
具にトマトを入れることで割と簡単に実現した。
タマネギは抜くわけにいかない。
いつもの小松菜を水菜に変え、まいたけ、
トマト、煮込み用の切り昆布、
そしていつものように、
水のかわりに酢を加えたところで
ソース味でも、かなり「さわやか」にいただけるようになった。
しそ風味の豆腐をいっしょに。
しあわせ。
★
今日一部分よんだ本とか借りた本とか聞いた話とか
意識とは何だろうか
フラクタルな世界
世界を肯定するための哲学
第三の脳
森の生活(中央公論7月)
四つの最後の歌ほか(CD)
Xitalk(傳田氏、福岡氏ほか、)
http://www.tbs.co.jp/radio/xitalk/bk/index-j.html
自分のものさしは小さいなあとおもう。
けっこうアバウトだから、
小さいだけでなくて、根本的に理解が間違ってるところさえ発見してしまって、
あらら。がーん。ってことも今日はあったりした。
こういうのが、ひとりで本を読んでるだけだ、ままあるわけで。
講義はもちろんとして、比較的フィードバックスパンの短い
ブログや雑誌を通してのご指南もありがたい。
Xitalkのサイトは初めて見たけれど、豪華ラインナップ。おすすめ。
このところ、いかに焼きそばを「さわやかに」いただくかに
腐心していた(というほどでもない)のだが、
具にトマトを入れることで割と簡単に実現した。
タマネギは抜くわけにいかない。
いつもの小松菜を水菜に変え、まいたけ、
トマト、煮込み用の切り昆布、
そしていつものように、
水のかわりに酢を加えたところで
ソース味でも、かなり「さわやか」にいただけるようになった。
しそ風味の豆腐をいっしょに。
しあわせ。
★
今日一部分よんだ本とか借りた本とか聞いた話とか
意識とは何だろうか
フラクタルな世界
世界を肯定するための哲学
第三の脳
森の生活(中央公論7月)
四つの最後の歌ほか(CD)
Xitalk(傳田氏、福岡氏ほか、)
http://www.tbs.co.jp/radio/xitalk/bk/index-j.html
自分のものさしは小さいなあとおもう。
けっこうアバウトだから、
小さいだけでなくて、根本的に理解が間違ってるところさえ発見してしまって、
あらら。がーん。ってことも今日はあったりした。
こういうのが、ひとりで本を読んでるだけだ、ままあるわけで。
講義はもちろんとして、比較的フィードバックスパンの短い
ブログや雑誌を通してのご指南もありがたい。
Xitalkのサイトは初めて見たけれど、豪華ラインナップ。おすすめ。
急に暑くなったせいか、はたまた昨夜の余韻なのかは不明だが、
ある程度予測されたことではあったけれども
今朝は起きられなくて、休みにした。
(われながら、勤怠はかなりいい加減である。)
昼過ぎてから、もっそりと起き出した。
殆どマジメな興味はなかったのだけれど、
何かお役に立つことがあればと
図書館に届いていた『タンパク質の音楽』を読んでみた。
トンデモ本のハシリかと思いきや、意外にちゃんとした本であると見た。
要約しようかと思ったけど、ぐぐってみると、
割合ちゃんとまとめをしているブログが見つかったので、やめにした。
とはいえ、やはり具体例になると
弱い相関関係があることぐらいしか言えない気がする。
でも。よくよく考えてみると、
いちおう自分の体内には不足しているモノがあり、
多くの病気にタンパク質が関わっているとするならば、
音楽療法なるものが効果をあげる可能性だって
ないわけではないかもしれない、とおもう。
続編ともいうべき『生命の暗号を聴く』を読んでみないと
なんともいえないかと思って、これと、あと
前から気になっていた傳田光洋『第三の脳』、
それから通りすがりの古CD屋でシュトラウスの『こうもり』DVDを購入。
いま、かけているところ。
贅沢なセット、言葉、意味に感情を表現する旋律が乗った、
植物の音楽、またはタンパク質の音楽の対極にあるようなオペラも
またそれはそれで、美しいとおもう。
話は戻るが、
すべての物質に波動があるのならば、
それにある程度の恣意性をもった形で音を割り当てたら
旋律が出来上がってもおかしくはないと思う。
とりあえず、現時点での私の興味関心は
そういう旋律がたとえばモーツァルトの楽曲の一部に似ているということも、
まあそれはあるかもしれないとして、
モーツァルトだけがいかにしてその旋律を捉え得たかというところにある。
(まあ、そう聞こえちゃったんだ、と言われたら、それでおしまいな話ではあるけど)
モネにとって、世界はあの色に見えたように、
モーツァルトには世界があの旋律に聞こえたわけで。
タンパク質の音、すなわち、まさしく内なる音を捉えたからこそ
現代にまで受け入れられる普遍性を帯びているのだとすると、
普遍のからくりは意外に底の浅い感じもしてしまうのだけれども。
よく分からない。
絶対音感、という本もちょっと気になっている。
(未読。そのうち読むとおもう)
ある程度予測されたことではあったけれども
今朝は起きられなくて、休みにした。
(われながら、勤怠はかなりいい加減である。)
昼過ぎてから、もっそりと起き出した。
殆どマジメな興味はなかったのだけれど、
何かお役に立つことがあればと
図書館に届いていた『タンパク質の音楽』を読んでみた。
トンデモ本のハシリかと思いきや、意外にちゃんとした本であると見た。
要約しようかと思ったけど、ぐぐってみると、
割合ちゃんとまとめをしているブログが見つかったので、やめにした。
とはいえ、やはり具体例になると
弱い相関関係があることぐらいしか言えない気がする。
でも。よくよく考えてみると、
いちおう自分の体内には不足しているモノがあり、
多くの病気にタンパク質が関わっているとするならば、
音楽療法なるものが効果をあげる可能性だって
ないわけではないかもしれない、とおもう。
続編ともいうべき『生命の暗号を聴く』を読んでみないと
なんともいえないかと思って、これと、あと
前から気になっていた傳田光洋『第三の脳』、
それから通りすがりの古CD屋でシュトラウスの『こうもり』DVDを購入。
いま、かけているところ。
贅沢なセット、言葉、意味に感情を表現する旋律が乗った、
植物の音楽、またはタンパク質の音楽の対極にあるようなオペラも
またそれはそれで、美しいとおもう。
話は戻るが、
すべての物質に波動があるのならば、
それにある程度の恣意性をもった形で音を割り当てたら
旋律が出来上がってもおかしくはないと思う。
とりあえず、現時点での私の興味関心は
そういう旋律がたとえばモーツァルトの楽曲の一部に似ているということも、
まあそれはあるかもしれないとして、
モーツァルトだけがいかにしてその旋律を捉え得たかというところにある。
(まあ、そう聞こえちゃったんだ、と言われたら、それでおしまいな話ではあるけど)
モネにとって、世界はあの色に見えたように、
モーツァルトには世界があの旋律に聞こえたわけで。
タンパク質の音、すなわち、まさしく内なる音を捉えたからこそ
現代にまで受け入れられる普遍性を帯びているのだとすると、
普遍のからくりは意外に底の浅い感じもしてしまうのだけれども。
よく分からない。
絶対音感、という本もちょっと気になっている。
(未読。そのうち読むとおもう)
書きたいことは沢山あって、日中、ヒマなのを良いことに、
会社でブログの下書き(?)をしかけていたのだけれども、
夜、ベジャールを見たら全部飛んでいってしまって頭が真っ白。
また後日まとめます。(たぶん、、)
マーラー5番のアダージョとボレロ以外は何も聞きたくなくて、
電車の中でも無音のままでイヤホンをしていた。
なにしろ、自分でお金を払ってバレエを見たのは初めてで
(つまり子供の頃、白鳥の湖かなんかを見て以来ということで、、)
それが余計に感興を増している可能性があるのは否定できない。
なぜ初めて見るバレエがベジャールかというと、
ドキュメンタリー映画を見たからなんだ。
その頃『エトワール』というバレエ映画
(実録風のフィクションだったか、ドキュメンタリーそのものだったかは忘れたが)
があって、それが好きだったから、その流れで見に行ったのだが、
ベジャールの妙な迫力と尋常ではない踊りに驚いてしまって、
以来、名前だけは記憶にとどめていた。
いつか見てみたいと思っていたのに、亡くなってしまった。
初めての文化会館は5階席で、
なんと怖い(つまり、高い)席なんだろう、
ちょっとコケてバランスを失ったら間違いなく転落死じゃないか、と
何度となく堕ちて行くシーンがイメージされていたのだけれど、
始まったら、すっかり忘れていた。
トウシューズがきゅきゅっと鳴る音さえ聞こえる静寂の中に
リヒャルト・シュトラウス「四つの最後の歌」が流れる「これが死か」で、
すっかり魂を抜かれてしまった。
照明もすごかった。
追悼の意味でプログラムにない演目が追加されて、
それがマーラー5番のアダージョ。
そしてボレロ。
Youtubeで見たのなんかとは全然違っていた。
あんなものは嘘っぱちだった。
目を閉じて思い出したいから、
おやすみなさい。
会社でブログの下書き(?)をしかけていたのだけれども、
夜、ベジャールを見たら全部飛んでいってしまって頭が真っ白。
また後日まとめます。(たぶん、、)
マーラー5番のアダージョとボレロ以外は何も聞きたくなくて、
電車の中でも無音のままでイヤホンをしていた。
なにしろ、自分でお金を払ってバレエを見たのは初めてで
(つまり子供の頃、白鳥の湖かなんかを見て以来ということで、、)
それが余計に感興を増している可能性があるのは否定できない。
なぜ初めて見るバレエがベジャールかというと、
ドキュメンタリー映画を見たからなんだ。
その頃『エトワール』というバレエ映画
(実録風のフィクションだったか、ドキュメンタリーそのものだったかは忘れたが)
があって、それが好きだったから、その流れで見に行ったのだが、
ベジャールの妙な迫力と尋常ではない踊りに驚いてしまって、
以来、名前だけは記憶にとどめていた。
いつか見てみたいと思っていたのに、亡くなってしまった。
初めての文化会館は5階席で、
なんと怖い(つまり、高い)席なんだろう、
ちょっとコケてバランスを失ったら間違いなく転落死じゃないか、と
何度となく堕ちて行くシーンがイメージされていたのだけれど、
始まったら、すっかり忘れていた。
トウシューズがきゅきゅっと鳴る音さえ聞こえる静寂の中に
リヒャルト・シュトラウス「四つの最後の歌」が流れる「これが死か」で、
すっかり魂を抜かれてしまった。
照明もすごかった。
追悼の意味でプログラムにない演目が追加されて、
それがマーラー5番のアダージョ。
そしてボレロ。
Youtubeで見たのなんかとは全然違っていた。
あんなものは嘘っぱちだった。
目を閉じて思い出したいから、
おやすみなさい。
なにを今更、って話だけど、
ジョン・ケージの曲って聴いたことがなかった。
4分33秒も、話で聞いたり文章ではよく目にするけど、
今日はじめてYoutubeで見た。
ダマシオの、感情とは絶えざるハミングなり、という言葉に
一人して盛り上がっていたのだけれども、
ケージの言葉を聞いて、あれれと思った。
John Cage(documentary film)
http://jp.youtube.com/watch?v=2aYT1Pwp30M
英語だしね、5回ぐらい聞いたんだけど、まちがってたらごめんなさい、
という感じですが。
「musicというとき、自分はその音楽からアイデア、メッセージを語りかけられているような気がする。
それに対してsoundは、たとえばtrafficの音は、そんな感じはしない。soundが動いている感じがする。そのアクティブな感じ、遠かったり近かったり、長かったり短かったり、それが好き。(中略)
人は聴くということに関して、ただ聴く以上のことを期待する。
インナーリスニングというか、内面でその意味を捉えるというか。
soundは、内面ではなく外面。意味はない。
「ただの音?」
それは無意味だといいたいようだが、私はsoundが好き。
心理的なものとか、権力とか他の音への愛とかはいらない。
ただの音が好き。
カントは2つのことを言った。
Don't have to mean anything, one is music, the other is laughter.
そして無意味なものほど、深い歓びを与えてくれる。
(猫に向かって、お前はそれをわかってるよな、と語りかける。)
沈黙が好き。たとえばtraffic.
モーツァルトやベートーヴェンはいつも同じだけど、
trafficの音はどこにでもあるけれども、いつも違う」
(Youtube動画、ケージのインタビューより、概要を超意訳。)
火曜日、テレビをつけたら坂東玉三郎さんが出ていて、
究極の踊りっていうのは、踊っている人も観客も、
終わったあと、時間が流れだけがあって
踊りのことなんかは思い出せなくて、あれ、あれは何だったんだろう、
と思うような、それでいて何か気だけが残っているような、
そんな踊りが理想だ、というようなことを言っていた(とおもう)
音楽においても、そういうものがあるとしたら、
それはもしかしたらmusicというよりsoundに近いものなのかもしれない、
とか思ったりもする。
無意識に働きかけるsoundほど
深いところ、すなわち情動に訴える、までいくとこじつけっぽいですかね。
思い込み激しいので。
注意しましょう。
それにしてもケージって、かっこいいですねえ。
(よくかっこいいの基準が尋常ではないと言われるけど、)
ドキュメンタリー、全部見てみたい。
そのものずばり、サイレンスって本もあるらしいけど、残念ながら図書館にはない。
John Cage Water Walk
http://jp.youtube.com/watch?v=SSulycqZH-U
ブライアン・イーノの日記、関川夏央、などなどを図書館で借りる。
これで次の土日までの精神的平安が保たれればよいが(苦笑)
祝日がないのがほんとうにつらい6月なり。
★
おまけ。
Gozo Cine新作だそうですよ。(9月の話だけど)
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=28861&userflg=0
蜂飼耳さんのワークショップも、またあるみたいですよ。
ではまた、、
ジョン・ケージの曲って聴いたことがなかった。
4分33秒も、話で聞いたり文章ではよく目にするけど、
今日はじめてYoutubeで見た。
ダマシオの、感情とは絶えざるハミングなり、という言葉に
一人して盛り上がっていたのだけれども、
ケージの言葉を聞いて、あれれと思った。
John Cage(documentary film)
http://jp.youtube.com/watch?v=2aYT1Pwp30M
英語だしね、5回ぐらい聞いたんだけど、まちがってたらごめんなさい、
という感じですが。
「musicというとき、自分はその音楽からアイデア、メッセージを語りかけられているような気がする。
それに対してsoundは、たとえばtrafficの音は、そんな感じはしない。soundが動いている感じがする。そのアクティブな感じ、遠かったり近かったり、長かったり短かったり、それが好き。(中略)
人は聴くということに関して、ただ聴く以上のことを期待する。
インナーリスニングというか、内面でその意味を捉えるというか。
soundは、内面ではなく外面。意味はない。
「ただの音?」
それは無意味だといいたいようだが、私はsoundが好き。
心理的なものとか、権力とか他の音への愛とかはいらない。
ただの音が好き。
カントは2つのことを言った。
Don't have to mean anything, one is music, the other is laughter.
そして無意味なものほど、深い歓びを与えてくれる。
(猫に向かって、お前はそれをわかってるよな、と語りかける。)
沈黙が好き。たとえばtraffic.
モーツァルトやベートーヴェンはいつも同じだけど、
trafficの音はどこにでもあるけれども、いつも違う」
(Youtube動画、ケージのインタビューより、概要を超意訳。)
火曜日、テレビをつけたら坂東玉三郎さんが出ていて、
究極の踊りっていうのは、踊っている人も観客も、
終わったあと、時間が流れだけがあって
踊りのことなんかは思い出せなくて、あれ、あれは何だったんだろう、
と思うような、それでいて何か気だけが残っているような、
そんな踊りが理想だ、というようなことを言っていた(とおもう)
音楽においても、そういうものがあるとしたら、
それはもしかしたらmusicというよりsoundに近いものなのかもしれない、
とか思ったりもする。
無意識に働きかけるsoundほど
深いところ、すなわち情動に訴える、までいくとこじつけっぽいですかね。
思い込み激しいので。
注意しましょう。
それにしてもケージって、かっこいいですねえ。
(よくかっこいいの基準が尋常ではないと言われるけど、)
ドキュメンタリー、全部見てみたい。
そのものずばり、サイレンスって本もあるらしいけど、残念ながら図書館にはない。
John Cage Water Walk
http://jp.youtube.com/watch?v=SSulycqZH-U
ブライアン・イーノの日記、関川夏央、などなどを図書館で借りる。
これで次の土日までの精神的平安が保たれればよいが(苦笑)
祝日がないのがほんとうにつらい6月なり。
★
おまけ。
Gozo Cine新作だそうですよ。(9月の話だけど)
http://www.asahiculture-shinjuku.com/LES/detail.asp?CNO=28861&userflg=0
蜂飼耳さんのワークショップも、またあるみたいですよ。
ではまた、、
朝、病院。
さすがに大学は検査もたくさんしてくれるし、
お医者さんも若くてかっこいい(ぶひ。)
話し方も穏やかで好み。(ぶひ、ぶひひ。)
でも既婚。惜しい。
待ち時間の長さには辟易。
でも、まあよいのだ。
ダマシオの『感じる脳』を読んでいた。
購入したまま、しばらくほったらかしていたのだが、
結果からいえば、この本を『マインド・タイム』の後に読んだのは正解で、
ダマシオの言うところの情動と感情の違いは、
これでめでたく明確になった。
「本書で言う情動とは動作または動きであり、その多くは外にあらわれている。たとえば顔や声や特定の行動にそれが生ずると、他人はそれを見ることができる。なるほど、情動のプロセスの構成要素の中にはじかに目に見えないものもあるが、ホルモン分析や電気生理学的波形といった現代的な科学的検査でそれらを「見える」ようにすることが可能だ。これに対して感情は、すべての心的イメージが必然的にそうであるように、つねに内に隠れており、その正当な所有者以外の人間には見えないという意味で、有機体の脳の中で生じる感情は、その有機体のもっとも私的な財産と言える。」
(アントニオ・ダマシオ『感じる脳』より引用)
そして、感情が起こってから情動(外に見える行動)となる、という一般的な見方に対して、
ダマシオはその逆である、と言う。
情動が最初に、原因的に、起こり、感情はいわば、その影である、と。
何故そういえるのか、それは、その順で人間が進化したからだと。
情動が担当しているのが生命のホメオスタシス(恒常性)のうちの、
代謝調節、基本的反射、免疫反応、苦と快の行動、というような、
木でいえば根や幹にあたる部分であり、
一方、感情というのは、ホメオスタシスの木でいえば枝葉の、
進化という観点からいえば、一番後に発達した機能だ、というのである。
この、情動が先、感情は後、という話は、
『マインド・タイム』のリベットの言説と矛盾しない。
情動を無意識、感情を意識と置き換えればいい。
まだ読んでいる途中なので、このくらいしか言えませんが。
いやあすごいっすね、ダマシオ先生。
ところで、この本の冒頭の文章は素敵なのだ。
これまたお高い本なので、購入を決意するまでに時間がかかったから、
立読み中、きっと目にしているはずなのだけれども、
まったく記憶に残っていない。
でもそれは、
マインドタイムを読み、環境音楽に関する本を読み、あの曲を聴いた後の私は
その前の私とは違うと、自分にとって重要な何かを考えて、ちょっとばかりは進歩したからだと、
信じたい。
「確かにそこには、無数の情動やその関連状態に対する「感情」(feelings)がある。それはわれわれの心の連続的な音符であり、われわれが眠りにつくまで消えることのない、もっとも普遍的なメロディーの絶えざるハミングである。われわれが喜びに満ち溢れているときそれはそのまま歌になり、哀しみがそれにとってかわると哀歌へと変ずる、そんなハミングである」
(アントニオ・ダマシオ『感じる脳』第一章 より引用)
脳と音の周辺で、うだうだと考えをめぐらしている中で
最近とみにいろんな言葉や考えが繋がりはじめ、生きもののように動き出してきた。
AppleのSteve Jobsのあのスタンフォード講演を思い出している。
ある経験という「点」は過去を振り返ったときにのみ、ある明確な線で繋がれる。
未来に向けてはその繋がりは見えない。
あくまで、過去を振り返ったときにのみ、その意味を知るのだ。
だから信じよ、自分の幸運でもガッツでもカルマでも何でも。
信じて、進め。
久しぶりに聞いたJobsの言葉がこだまする。
さすがに大学は検査もたくさんしてくれるし、
お医者さんも若くてかっこいい(ぶひ。)
話し方も穏やかで好み。(ぶひ、ぶひひ。)
でも既婚。惜しい。
待ち時間の長さには辟易。
でも、まあよいのだ。
ダマシオの『感じる脳』を読んでいた。
購入したまま、しばらくほったらかしていたのだが、
結果からいえば、この本を『マインド・タイム』の後に読んだのは正解で、
ダマシオの言うところの情動と感情の違いは、
これでめでたく明確になった。
「本書で言う情動とは動作または動きであり、その多くは外にあらわれている。たとえば顔や声や特定の行動にそれが生ずると、他人はそれを見ることができる。なるほど、情動のプロセスの構成要素の中にはじかに目に見えないものもあるが、ホルモン分析や電気生理学的波形といった現代的な科学的検査でそれらを「見える」ようにすることが可能だ。これに対して感情は、すべての心的イメージが必然的にそうであるように、つねに内に隠れており、その正当な所有者以外の人間には見えないという意味で、有機体の脳の中で生じる感情は、その有機体のもっとも私的な財産と言える。」
(アントニオ・ダマシオ『感じる脳』より引用)
そして、感情が起こってから情動(外に見える行動)となる、という一般的な見方に対して、
ダマシオはその逆である、と言う。
情動が最初に、原因的に、起こり、感情はいわば、その影である、と。
何故そういえるのか、それは、その順で人間が進化したからだと。
情動が担当しているのが生命のホメオスタシス(恒常性)のうちの、
代謝調節、基本的反射、免疫反応、苦と快の行動、というような、
木でいえば根や幹にあたる部分であり、
一方、感情というのは、ホメオスタシスの木でいえば枝葉の、
進化という観点からいえば、一番後に発達した機能だ、というのである。
この、情動が先、感情は後、という話は、
『マインド・タイム』のリベットの言説と矛盾しない。
情動を無意識、感情を意識と置き換えればいい。
まだ読んでいる途中なので、このくらいしか言えませんが。
いやあすごいっすね、ダマシオ先生。
ところで、この本の冒頭の文章は素敵なのだ。
これまたお高い本なので、購入を決意するまでに時間がかかったから、
立読み中、きっと目にしているはずなのだけれども、
まったく記憶に残っていない。
でもそれは、
マインドタイムを読み、環境音楽に関する本を読み、あの曲を聴いた後の私は
その前の私とは違うと、自分にとって重要な何かを考えて、ちょっとばかりは進歩したからだと、
信じたい。
「確かにそこには、無数の情動やその関連状態に対する「感情」(feelings)がある。それはわれわれの心の連続的な音符であり、われわれが眠りにつくまで消えることのない、もっとも普遍的なメロディーの絶えざるハミングである。われわれが喜びに満ち溢れているときそれはそのまま歌になり、哀しみがそれにとってかわると哀歌へと変ずる、そんなハミングである」
(アントニオ・ダマシオ『感じる脳』第一章 より引用)
脳と音の周辺で、うだうだと考えをめぐらしている中で
最近とみにいろんな言葉や考えが繋がりはじめ、生きもののように動き出してきた。
AppleのSteve Jobsのあのスタンフォード講演を思い出している。
ある経験という「点」は過去を振り返ったときにのみ、ある明確な線で繋がれる。
未来に向けてはその繋がりは見えない。
あくまで、過去を振り返ったときにのみ、その意味を知るのだ。
だから信じよ、自分の幸運でもガッツでもカルマでも何でも。
信じて、進め。
久しぶりに聞いたJobsの言葉がこだまする。
氷室冴子さんが好きである。
小学校6年生の時のクラスメイトが
『クララ白書』『ざ・ちぇんじ』『シンデレラ迷宮』なんかを
お姉さんから借りて学校に持ってきていて、
図書館の本しか知らなかった私は
世の中にこんなおもろい本があったのか、とコドモゴコロにカンゲキした。
折しもコバルト文庫全盛の頃である。
引越してクラスメイトとは会う機会もなくなったが
氷室さんの本は高校ぐらいまで全巻揃えていた。
海がきこえる、がアニメ化されて、懐かしくて喜んだりもした。
せつない。
小学校6年生の時のクラスメイトが
『クララ白書』『ざ・ちぇんじ』『シンデレラ迷宮』なんかを
お姉さんから借りて学校に持ってきていて、
図書館の本しか知らなかった私は
世の中にこんなおもろい本があったのか、とコドモゴコロにカンゲキした。
折しもコバルト文庫全盛の頃である。
引越してクラスメイトとは会う機会もなくなったが
氷室さんの本は高校ぐらいまで全巻揃えていた。
海がきこえる、がアニメ化されて、懐かしくて喜んだりもした。
せつない。
午後5時を過ぎて、生き返ったみたいに元気になった。
チケットをいただいたKazari展、サントリー美術館に向かう。
あまり飾りというテーマとは関係ないかもだけれど、
舞踊図が可愛い。(リンク先は昔の展示ですが、)
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/07vol01iwau/program.html
たくさんの人が描かれた絵巻物や屏風を見ながら、風や水、
歌い踊る音が聞こえるような気がしてきた。
実際のところ、そこにはどんな音があったのかと
考える癖が、ここ数日の間についたのかもしれない。
歩いているとき、しばらくの間だけでもipodを外していることが多くなった。
車や電車の単調な音がそのほかの音を消してしまっているし、
森で聞こえるような心地よい音はないのは確かだけれども、
気持ちだけでも、環境=音楽に、もう少し耳を傾けてみようかと思ったりしている。
細い月が出ている。
マリー・シェーファー『世界の調律』の
日本版が『平安京 音の宇宙』といってもよさそうで、
源氏物語、枕草子、平家物語、といった物語の中に
当時の「音風景」がどのようであったかを見る。
1000年前の音が、仮のイメージであっても聞こえてくると
途端に世界は豊かになる。
昔の都での暮らしは、意外なほどに喧騒の中にあったのかもしれない。
時を告げる鐘や鼓が何箇所でも鳴らされるのだろうし、
音曲が演奏されれば耳はそちらにとられてしまう。
ずりずりとあの大袈裟な着物をひきずって歩くわけで、
衣擦れの音だけでも煩かろうに。
宮中は大部屋雑居状態だったろうから
始終人の話し声も聞こえていただろうし。
馬に鞭する音などは、思考停止してしまう騒音だったに違いないし。
そんな中で、他を圧するほどの音を発するということは、
その空間を支配する権力、聖なる力とでもいうべきものを持っていることと同義となった。
(主に西洋では。日本では、雅なひとたちは小声で話したらしいけど。)
また大音量が人間をトランス状態へ導くことも知られており。
「打楽器がトランス誘引のための必要十分条件を絶対的に充たしているとは言い切れないものの、それを用いて儀礼を成立させている民族が多いことは確かである。むしろさらに考察をおしすすめ、打楽器による興奮作用は、生理的に完全にオートマティックなものではなく、学習によって得られる文化の一部として捉えたほうが、その意味について深い理解がもたらされるであろう。というのは、ノイズを沈黙とセットで捉えることによって、ノイズのより高度な文化的用法を明らかにした研究があるからである。ジャクソンは、ノイズと沈黙の対照性よりも、「コインの両面ともいうべきノイズと沈黙によって、生理学的な限界がもたらされる」といった共通性に目をむけ、ノイズと沈黙をひとくくりに捉えて、「ほどほどの感覚的な刺激で充分な」日常の状態と対比させようとした」
(『平安京 音の宇宙』中川真より引用)
マリー・シェーファーいわく、
ジョン・ケージは、無音室に入ったとき、
一方は高く他方は低い二つの音を聞き、
高いほうは自分自身の神経システムが作用している音、
低いほうは血液が循環している音だと教えられて、
沈黙などというものは存在しないと結論付けたという。
それで思い出したのが解体新ショーで、
無音室や、周囲の雑音が少ない山の中で宿泊したときなどに聞こえる
「キーン」とか「シーン」という耳鳴りのような音は、
耳の中にダンス細胞というのがあって、
その音を自分自身の耳で聞いているのだといっていた(とおもう)。
あああ、まとまらなくなってきた。
ひとりの沈黙は耐えがたいのかもしれないけれども、
誰かと一緒にいてゆるされる沈黙は、
なかなかに安らかなものかもしれない。
そんなことを、
テレビで流れていたバッハのフーガの技法と、
こないだコンサートに行ったuni-marcaさんのCDを聞きながら、
思った。
チケットをいただいたKazari展、サントリー美術館に向かう。
あまり飾りというテーマとは関係ないかもだけれど、
舞踊図が可愛い。(リンク先は昔の展示ですが、)
http://www.suntory.co.jp/sma/exhibition/07vol01iwau/program.html
たくさんの人が描かれた絵巻物や屏風を見ながら、風や水、
歌い踊る音が聞こえるような気がしてきた。
実際のところ、そこにはどんな音があったのかと
考える癖が、ここ数日の間についたのかもしれない。
歩いているとき、しばらくの間だけでもipodを外していることが多くなった。
車や電車の単調な音がそのほかの音を消してしまっているし、
森で聞こえるような心地よい音はないのは確かだけれども、
気持ちだけでも、環境=音楽に、もう少し耳を傾けてみようかと思ったりしている。
細い月が出ている。
マリー・シェーファー『世界の調律』の
日本版が『平安京 音の宇宙』といってもよさそうで、
源氏物語、枕草子、平家物語、といった物語の中に
当時の「音風景」がどのようであったかを見る。
1000年前の音が、仮のイメージであっても聞こえてくると
途端に世界は豊かになる。
昔の都での暮らしは、意外なほどに喧騒の中にあったのかもしれない。
時を告げる鐘や鼓が何箇所でも鳴らされるのだろうし、
音曲が演奏されれば耳はそちらにとられてしまう。
ずりずりとあの大袈裟な着物をひきずって歩くわけで、
衣擦れの音だけでも煩かろうに。
宮中は大部屋雑居状態だったろうから
始終人の話し声も聞こえていただろうし。
馬に鞭する音などは、思考停止してしまう騒音だったに違いないし。
そんな中で、他を圧するほどの音を発するということは、
その空間を支配する権力、聖なる力とでもいうべきものを持っていることと同義となった。
(主に西洋では。日本では、雅なひとたちは小声で話したらしいけど。)
また大音量が人間をトランス状態へ導くことも知られており。
「打楽器がトランス誘引のための必要十分条件を絶対的に充たしているとは言い切れないものの、それを用いて儀礼を成立させている民族が多いことは確かである。むしろさらに考察をおしすすめ、打楽器による興奮作用は、生理的に完全にオートマティックなものではなく、学習によって得られる文化の一部として捉えたほうが、その意味について深い理解がもたらされるであろう。というのは、ノイズを沈黙とセットで捉えることによって、ノイズのより高度な文化的用法を明らかにした研究があるからである。ジャクソンは、ノイズと沈黙の対照性よりも、「コインの両面ともいうべきノイズと沈黙によって、生理学的な限界がもたらされる」といった共通性に目をむけ、ノイズと沈黙をひとくくりに捉えて、「ほどほどの感覚的な刺激で充分な」日常の状態と対比させようとした」
(『平安京 音の宇宙』中川真より引用)
マリー・シェーファーいわく、
ジョン・ケージは、無音室に入ったとき、
一方は高く他方は低い二つの音を聞き、
高いほうは自分自身の神経システムが作用している音、
低いほうは血液が循環している音だと教えられて、
沈黙などというものは存在しないと結論付けたという。
それで思い出したのが解体新ショーで、
無音室や、周囲の雑音が少ない山の中で宿泊したときなどに聞こえる
「キーン」とか「シーン」という耳鳴りのような音は、
耳の中にダンス細胞というのがあって、
その音を自分自身の耳で聞いているのだといっていた(とおもう)。
あああ、まとまらなくなってきた。
ひとりの沈黙は耐えがたいのかもしれないけれども、
誰かと一緒にいてゆるされる沈黙は、
なかなかに安らかなものかもしれない。
そんなことを、
テレビで流れていたバッハのフーガの技法と、
こないだコンサートに行ったuni-marcaさんのCDを聞きながら、
思った。
ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』読了。
いやあ、これってスゴイ話だなあ。
以下引用(しすぎかも。すいません)
「自由で自発的な行為の550ミリ秒前に脳は起動プロセスを示します。しかし、行為を実行しようとする意識を伴った意志のアウェアネスが現れるのは、その行為のたった150から200ミリ秒前なのです。したがって、その被験者が行為を実行しようとする自分の意志や意図に気づく400ミリ秒ほど前に、自発的なプロセスは無意識に起動するのです。」
でもって、感覚事象のアウェアネスを引き出すには、0.5秒程度の持続時間が必要なんだそうな。
つまりたとえば皮膚から何か刺激があったとして、そこから0.5秒遅れて「気づく」わけですな。
だけど、実際には遅れているはずなのに、何故か遅れて気づいたことに気づかない。
刺激と同時に気づいたと思い込んでるわけです(感覚経験の時間的遡及)
でも実際は遅れているので、その間にその人特有の経験、記憶、情動その他を反映して無意識に感覚経験は変容しているんだって。
いやあ、すごいよ。無意識。
「それでは、自由意志が(行為の)自発性に何らかの役割を果たす可能性は少しでもあるのですか?
リベット あります。意識を伴う意図は、運動活動の約150ミリ秒前に確かに現れます。この(400ミリ秒前から150ミリ秒前までの)間、意識機能がプロセスに干渉する十分な時間が生じます。これが自発性のプロセスを引き起こす引きがねとなるのかもしれません。しかし、このことについての直接的な証拠はありません。しかし、何も行為が生じないよう、意識的な意志がプロセスを止めたり、拒否したりすることができることになるという証拠はあります。このような場合、自由意志がその結果をコントロールすることができるのです。このことは、倫理体系が私たちに促していること、つまり実際に私たちは自分自身をコントロールするという行為ができる、という感覚と合致します」
(ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』下條信輔 訳より引用)
自由意志が機能する可能性はあるのね。ちょっとほっとした。
いやあ、これってスゴイ話だなあ。
以下引用(しすぎかも。すいません)
「自由で自発的な行為の550ミリ秒前に脳は起動プロセスを示します。しかし、行為を実行しようとする意識を伴った意志のアウェアネスが現れるのは、その行為のたった150から200ミリ秒前なのです。したがって、その被験者が行為を実行しようとする自分の意志や意図に気づく400ミリ秒ほど前に、自発的なプロセスは無意識に起動するのです。」
でもって、感覚事象のアウェアネスを引き出すには、0.5秒程度の持続時間が必要なんだそうな。
つまりたとえば皮膚から何か刺激があったとして、そこから0.5秒遅れて「気づく」わけですな。
だけど、実際には遅れているはずなのに、何故か遅れて気づいたことに気づかない。
刺激と同時に気づいたと思い込んでるわけです(感覚経験の時間的遡及)
でも実際は遅れているので、その間にその人特有の経験、記憶、情動その他を反映して無意識に感覚経験は変容しているんだって。
いやあ、すごいよ。無意識。
「それでは、自由意志が(行為の)自発性に何らかの役割を果たす可能性は少しでもあるのですか?
リベット あります。意識を伴う意図は、運動活動の約150ミリ秒前に確かに現れます。この(400ミリ秒前から150ミリ秒前までの)間、意識機能がプロセスに干渉する十分な時間が生じます。これが自発性のプロセスを引き起こす引きがねとなるのかもしれません。しかし、このことについての直接的な証拠はありません。しかし、何も行為が生じないよう、意識的な意志がプロセスを止めたり、拒否したりすることができることになるという証拠はあります。このような場合、自由意志がその結果をコントロールすることができるのです。このことは、倫理体系が私たちに促していること、つまり実際に私たちは自分自身をコントロールするという行為ができる、という感覚と合致します」
(ベンジャミン・リベット『マインド・タイム』下條信輔 訳より引用)
自由意志が機能する可能性はあるのね。ちょっとほっとした。
朝、満員の中央線に乗りながら、
ああ、こうやって身体感受性を低下させていると思う。
久しぶりに仕事が忙しい。
(といっても、定時で上がろうとするから多忙になるという程度だけれども、)
クリエイティブな仕事は裏切らないのかもしれないが、
わたしのしている仕事なんて、誰とでも取替えがきく。
処理速度ぐらいでしか勝負できないというプレッシャーが常にある。
マレーシアとスリランカとニッポンの関連各所に
鬼のようにメールを打ちまくる。
マリー・シェーファー『世界の調律』を読みかけている。
『身体知』、環境音楽、ときて、この本も自分の中では繋がっている。
どう繋がっているかを記録すべきなんだろうけれども、これがどうも
うまくいかない。
思い込みが激しいとよく言われるし、自覚もある。
黙って読んで満足していればいいんだろうけれど、こうして意味不明な言葉を発してしまう。
すいません。
と、誰にともなくあやまってみる。
このトシになると、もう開き直るしかないってかんじで(笑)
ああ、こうやって身体感受性を低下させていると思う。
久しぶりに仕事が忙しい。
(といっても、定時で上がろうとするから多忙になるという程度だけれども、)
クリエイティブな仕事は裏切らないのかもしれないが、
わたしのしている仕事なんて、誰とでも取替えがきく。
処理速度ぐらいでしか勝負できないというプレッシャーが常にある。
マレーシアとスリランカとニッポンの関連各所に
鬼のようにメールを打ちまくる。
マリー・シェーファー『世界の調律』を読みかけている。
『身体知』、環境音楽、ときて、この本も自分の中では繋がっている。
どう繋がっているかを記録すべきなんだろうけれども、これがどうも
うまくいかない。
思い込みが激しいとよく言われるし、自覚もある。
黙って読んで満足していればいいんだろうけれど、こうして意味不明な言葉を発してしまう。
すいません。
と、誰にともなくあやまってみる。
このトシになると、もう開き直るしかないってかんじで(笑)
夕方から新宿に行って、ベンジャミンリベット『マインド・タイム』を買う。
相変わらず、こういう本はお高いんだけれども、
品揃えの良い中野図書館にも蔵書がなく、
またこれは借りてもすぐには全部読めなかろうという種類の本であるとか、
色々あって、これは買わないと、とおもう。
まだ読み始めで、むずかしいんだけれども面白い。
ごくごく自分に分かる程度に要約すると、
人間が意識的に意思決定する前に
感覚器官は意思決定に必要なノイズみたいなものを既に感知している、
そのノイズは0.5秒ほど継続しないと脳の該当箇所は活性化しない、
という話(だろうと思う)。
だから、人間、自分で意思決定してるつもりでも、ちがうのよ、
でも著者は唯物論とか決定論だという気はないのよ、
という立ち居地でお話は進んでいる模様。
相変わらず、こういう本はお高いんだけれども、
品揃えの良い中野図書館にも蔵書がなく、
またこれは借りてもすぐには全部読めなかろうという種類の本であるとか、
色々あって、これは買わないと、とおもう。
まだ読み始めで、むずかしいんだけれども面白い。
ごくごく自分に分かる程度に要約すると、
人間が意識的に意思決定する前に
感覚器官は意思決定に必要なノイズみたいなものを既に感知している、
そのノイズは0.5秒ほど継続しないと脳の該当箇所は活性化しない、
という話(だろうと思う)。
だから、人間、自分で意思決定してるつもりでも、ちがうのよ、
でも著者は唯物論とか決定論だという気はないのよ、
という立ち居地でお話は進んでいる模様。
Mさん、例のはコレです。
Les uns et les autres (1980) - le boléro de Ravel -
http://www.youtube.com/watch?v=5_XdRa2oMR0
Bolero - Donn
http://www.youtube.com/watch?v=Lnut9tB78BE
気が向かれたらご一緒に?チケット僅少ですが。
この埋め合わせはまたいずれ、、
Les uns et les autres (1980) - le boléro de Ravel -
http://www.youtube.com/watch?v=5_XdRa2oMR0
Bolero - Donn
http://www.youtube.com/watch?v=Lnut9tB78BE
気が向かれたらご一緒に?チケット僅少ですが。
この埋め合わせはまたいずれ、、
すっぱいものが好き。
前は人から聞いた健康法を真似して
酢を毎朝大さじ1杯飲んでいたが、次第に飽きてきてやめてしまった。
スーパーでキュウリと生しらすを買った。
皿の上にしょりしょりしょりとキュウリを1本スライスして
生しらすをひとつかみ、もっさりと置く。
実家で長年通販で取り寄せている梅干を1箱もらっていて、それを1つ。
上から酢を2回しほど。
しょうゆはあまり使わない。
ごはんといっしょに食べたいよなあ、と思いつつ、
お気に入りのパン屋さんで買ったクロワッサンとミルクティーといっしょに
いただく。
右隣の部屋から味噌汁の良い香りがする。
賃貸のマンションは築何十年かの代物で、壁が薄い。
声のみならず匂いも届く。
左隣の部屋は小さな会社で、消火器を売っている。
平日9時を過ぎるとおじさんが来てイロイロと電話している声が丸聞こえである。
右隣からは水道の蛇口をひねる音以外、物音が聞こえたためしがないから、
左と右で壁の厚さが違うのか、
相当寡黙なひとが住んでいるのだろう。
一人住まい用、またはどうがんばっても2人用の間取りに違いないのだが、
お母さんらしき人と、男性と、高校生ほどの若い女の子の3人が出入りしているのを
別々の機会に目撃した。
たまに出前でお寿司や丼ものを取ったりしていて、
空の器はやはり2人か3人前である。
洗濯物は男性物のワイシャツがかかっている。
(といっても、窓を開けて隣をまじまじと見るのは土日のみだから、
平日は女物がかかっている可能性もある)
いったい、誰が住んでいるのだろう。
前は人から聞いた健康法を真似して
酢を毎朝大さじ1杯飲んでいたが、次第に飽きてきてやめてしまった。
スーパーでキュウリと生しらすを買った。
皿の上にしょりしょりしょりとキュウリを1本スライスして
生しらすをひとつかみ、もっさりと置く。
実家で長年通販で取り寄せている梅干を1箱もらっていて、それを1つ。
上から酢を2回しほど。
しょうゆはあまり使わない。
ごはんといっしょに食べたいよなあ、と思いつつ、
お気に入りのパン屋さんで買ったクロワッサンとミルクティーといっしょに
いただく。
右隣の部屋から味噌汁の良い香りがする。
賃貸のマンションは築何十年かの代物で、壁が薄い。
声のみならず匂いも届く。
左隣の部屋は小さな会社で、消火器を売っている。
平日9時を過ぎるとおじさんが来てイロイロと電話している声が丸聞こえである。
右隣からは水道の蛇口をひねる音以外、物音が聞こえたためしがないから、
左と右で壁の厚さが違うのか、
相当寡黙なひとが住んでいるのだろう。
一人住まい用、またはどうがんばっても2人用の間取りに違いないのだが、
お母さんらしき人と、男性と、高校生ほどの若い女の子の3人が出入りしているのを
別々の機会に目撃した。
たまに出前でお寿司や丼ものを取ったりしていて、
空の器はやはり2人か3人前である。
洗濯物は男性物のワイシャツがかかっている。
(といっても、窓を開けて隣をまじまじと見るのは土日のみだから、
平日は女物がかかっている可能性もある)
いったい、誰が住んでいるのだろう。
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