初オペラとか


2年ぐらい前から、
「1年にいっぺんぐらいはオペラに行きたいなあ」
と思っていた。
たぶんブログにもそう書いたことがある、のだけれども、
実行に至らず今日まできた。

パルテノン多摩なるところで「トゥーランドット」の追加公演があって、
安いぞ、ってのをネットで見たのが3週間ほど前の話で、
(なんで多摩かなー、と正直思ったんだけれども、)
こんなことでもないと有言不実行のまま3年目突入しそうだったから、
とにかくチケットを買って、とにかく行ってきた。

スケートで一躍人気が出たってこと以外は殆ど知らなかったけれど、
一応予習はしてみた。

turandotで検索するとまず出てくるのがPavarotti。
いやぁ、かっこいいですねえ。
Pavarotti - Nessun Dorma

こちらはトリノオリンピック開会式。
Pavarotti Last Performance "Nessun Dorma" @ Torino 2006

ついでにこちらも。
イギリスのテレビ番組で、アイドル誕生、みたいな感じで
優勝するとタレントとして売り出してくれる(のかな?)。
ケータイのセールスマンであるというちょっと内気な感じの挑戦者が
「オペラ歌います」と言った時のげんなりした審査員の顔と、
歌い始めた後の顔の変化にご注目(笑)

Paul sings Nessun Dorma high quality video/sound
彼はめでたくその年優勝して、ロックフェラーセンター(の前の広場)で歌い、
その後デビューを果たしたらしい。

本題に戻ると、やっぱりこのトゥーランドット姫の話は
ちょっと筋に無理があるだろうという気がするのだけれども、
まあ細かいことは気にせず。
舞台美術が予想以上に凝っていて、照明も美しかった。
これでもう少しホールの音響がよければ良いのにと思いつつ。



昨日御茶ノ水の三省堂をうろうろしていたら、
音楽関連書籍の特設売場を設けられていたので何冊か購入した。

そのうちの一冊が藤枝守さんという作曲家の『響きの考古学』。
以前に小沼先生の授業で伺ったのを思い出したのもあるし
その授業のあとリーダーに入れていた藤枝さんのブログを読んで
今ちょうど21世紀美術館に設置されているエオリアンハープを
生で聞いてみたいなあと思っていたのもある。
縁というのは予測のつかないタイミングで循環していくもので、
ブログに紹介されていた21世紀美術館のポッドキャストのトークの後ろから
エオリアンハープの音色が聞こえてくるのだった。

藤枝守 インタビュー

中国では昔、音は単なる音だけではなく、
社会の規律の一部ともいえる重要な役目を担っていたそうで、
権力者の重要な仕事の一つは音律を定めることであったらしい。

音は確かにある種の権力というか、影響力を持っている。
人間の、社会の、というような一般的な言い方ができるほど音楽に関する知識はないけれど、
とりあえず、わたしの生命に音が深く関わっていて、
支配、という言葉を使っても差し支えない程度に影響されていることを
しみじみ感じる秋の夜長、だったりする。







2008⁄10⁄26(Sun) 23:47   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
そろそろ


紀尾井ホールがなんとなく好きなのは、
職場が御茶ノ水で、帰路をはずれずに中央線ひと駅で(定期で)行けるせいも
あるかもしれない。

木曜にシリアスなミーティングがあって、
そのフォローを月曜に茨城県まで出向いてしなければならないせいで、
かなりストレスフルである。
(あたしいま派遣なのに
なんでこんな仕事までさせるんだという程度の)

というわけで、昨日の夜は自称音楽療法として
ブラームスの弦楽四重奏曲、五重奏曲、六重奏曲を聴いてきた。
いいですねえ。
弦楽器の生の音って、重なるとどうしてこんなにいい響きがするんでしょうねえ。
と、グルメ番組で何か食べて美味しいというのと同じ程度のコメントしかできないのが
悲しいところだけれども。

ま、そんなわけで昨日は癒されまして、
今日は入社後初めての休日出勤と相成りました。
明日もかなあ。
あさっての月曜からの週は、
マレーシアの工場の人たちが取引先との会議に出向いてくるので、
その案内とか、ナントカ、カントカで、いろいろある予定です。

さて、そろそろ会社に行きますかねえ。






2008⁄10⁄18(Sat) 12:23   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
ひばり


涼しくなって、すこし活動的になってきた。
土曜だというのに珍しく9時前に起床。

昼から新宿に出かけて三輪さんという作曲家の新曲とレクチャー、
対談を聞きに行く。
これは殆ど邪道ともいえる、作曲家というかたがたは曲を作るとき
どんなことを考えているんだろうか、という興味オンリーで、
ちょっと検索して調べた以外は何も知らずに行ったのだが、おもしろかった。

コンピュータのアルゴリズムを使っての作曲、ということだったので、
もっと無機的な音を連想していたのだけれど、
ピアノとヴァイオリンを使っているせいか、
またはあり得たかもしれない西洋音楽、を目指しているせいなのか、
想像していたよりずっと、何かが伝わってくる音楽だった。
それが何なのか、というのはまだ今の私にはよくわからないけれども。
そこはそう、ブリコラージュの精神で。

思ったより早く終わったので、
ファンファーレ・チォカリーアの当日券を目当てに三鷹に。
『チューバはうたう』の著者、セガワさんのブログで来日を知った時点では
既に前売は完売で。
当日券は2枚しかなかったのだけれど、
一緒に並んでいた親子3人連れ様、いつの間にか去ってしまった男子1名様、
譲ってくれて、本当にありがとうございました。

もうなんというか、言葉は要らない、っていうか。
6時開始だったけれど、6時25分の時点で殆ど会場総立ちで踊ってました。
ファンファーレ・チョカリーア、アリガトウ、Thank you,以外
何を言っているのか、何を歌っているのかよく分からなかったけど、
そんなことはどうでもいいというか、
これぞ録楽(三輪さん言うところの録音された音楽)ではない、生の「音楽」であって。
リズムに合わせて動いているうちに、
身体から不純物が抜け落ちて軽くなっていくような。
アンコールが終わって、これで終わりです、というアナウンスがあった後も、
ロビーに出てきて演奏してくれました。
楽しかったなあ。ありがとう。

FANFARE CIOCARLIA - ASFALT TANGO





2008⁄10⁄11(Sat) 23:23   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
Let it be


特にビートルズが好きだ、というわけではなくて、
流れていれば、それはそれで悪くはないけれども、という程度の「好き」加減である。

きっかけは、小沼先生の授業で
久しぶりにThe Beatles のLet it beを聞いたことで、
妙に気持ちの奥のほうに働きかけてくるこの歌の、
この感じはなんだろう、と思いながら、
家に帰ってYoutubeで10回ぐらい、聞いた。

はじめてマジメに歌詞の意味を考えてみた。
(ふだん、相当有名な曲でも歌詞は頭を素通りして
メロディーしか覚えていない人間なので、、、笑)

検索をかけると数多の訳がヒットするのだけれども、
Let it be は、そのままにしておく、とか、あるがままに、または
そのままでいいさ(なんとかなるよ)というような翻訳になっていることが多い。

Let it be はサビの部分だから、この一文だけで何度も登場するけれど、
それは除いて、
前に文脈があって最後にLet it be、で終わるフレーズだけでも7箇所はある。
その7箇所のLet it beを一律に、
例えば「そのまま」、「あるがまま」、という日本語に置き換えてある翻訳が多いのだが、
それがどうも、すごく妙な感じなのだ。
こんなに短い歌詞なのに、30分ぐらい検索しても、
これというものが見つからない。
翻訳とは難しい作業だと思いながら、また聞いてみる。

月曜日、早稲田駅付近の書店で
さきごろ出たらしい内田先生のレヴィナスの翻訳を探したのだけれど、
残念ながら見つからなかった。
(なにしろお高いので、さすがにクリック一発で買う勇気が出ず、
ちょっと下見がしたいわけで、、)
かわりに、というわけではないけれど、
平積みになっていた『てつがくこじんじゅぎょう』を買って、その中のレヴィナスの項を
読んでみた。

レヴィナスを語る内田先生。

「レヴィナス的に言うと、私というものそのものが、私ならざるものとの関わり合いにおいてしか、何者であるかを常に事後的にしか発見できない。そのときに私自身の自己規定を可能にする他者がいる。これがなんだかぜんぜんわからない。なんだかわからないものとのかかわりによって初めて自分がわかるんだけど、自分を基礎づけてくれるこのわからないものが依然としてさっぱりわからに。だから全然気持ちよくならない。達成感とか、「これでわかった」というのが絶対に来ないように構造化してあるんですね、レヴィナス哲学って。ここまでしつこく気持ちよくならないように作ってあるものは類を見ない」

かっこいい。

「結局、情報じゃないんですよね。本から情報を得るんじゃなくて、わからないからこちらのシステムを組み替えていく。読む側のOSのバージョンアップをしていかないとだめなんですよ。読んでわかるものは、いまの自分の知的なフレームでいけるんだと今の自分を肯定してしまう。ところがレヴィナスの文章を読んでいるといまの自分ではだめなんだ、このフレームをバージョンアップしなくては、となる。バージョンをひとつ上げると、いままで読めなかったものが少しだけ解読可能になってくる。もう一つ上げると、またちょっと読めてくる。まあ、これも幻想ですけどね。」

「とにかく、「そのまんまじゃいかんのだよ、君は。いま机に座って本に線を引いているけど、そんなことをしてたらいかんよ」というのがビシビシくるんですよ」

(『てつがくこじんじゅぎょう』鷲田清一×永江朗より引用)

たとえば自分が「リーチ」と言って上がろうと思っていた隣で
「ロイヤルストレートフラッシュ」と言って上がってしまうヤツを見たときにはじめて、
自分が麻雀をしていたことに気づく、というような、
既存のシステムや、自分にとって自然だと思っていたものの崩壊に直面したときに
どうするべきか、ということがレヴィナス哲学には書かれてある(らしい)。
読んでみたいよね。

で、こういう本を読みながら、ビートルズのLet it beを聴くとどうなるか、という話に戻る。
このLet it be という言葉が、
最初に聞いたときに理解した、いわゆる癒し系の、慰めのような意味には
どうしても取れなくなってきて、最後には
「今のまま、永遠にもがいてなさい、じたばたしてなさい、それがあんたって人間なんだから」
と聴こえたりする。

それでもいいのかも、と思いつつ。

The Beatles - Let It Be (1970)





2008⁄10⁄09(Thu) 01:35   もろもろ | Comment(2) | Trackback(0) | ↑Top
20081005


ここのところいつに増して道に迷った気分だったのが、少し先に灯りがともったような気がしたら嬉しくなって、つらつらと写しているうちにずいぶん長くなった。

保坂和志『世界を肯定する哲学』11章〈精神〉が書物の産物だとしたら、インターネットの中で〈精神〉は……より引用。

「問う」ということは、A氏からB氏に向かってなされる行動ではなくて、自分の中で辛抱強くつづける精神のあり方のことである。「問う」ということは、地図の上を目的地に向かって進むことではなくて、自分で地図を作りながら進むことであり、地図を作るという行為そのもののことである。しかも、その地図を読めるのは地図を作ったその人間だけである。……(中略)

しかし「理解する」というのは、本来が「分からない人にはわからない」という性質のもので、近接する知識が事前に何もなかったら理解することはできない。「理解する」とは、「車とはXXである」「雲とはXXである」という風に、項目を一つ一つ転写することではなくて、その概念を使う精神の状態を引き継ぐことだ。だから、「理解する」ことによって精神の様相が変わってゆく。それは「理解しない」人から見ればとても不透明なことだ。不透明さに分け入って「理解した」その人が「理解しない」人に向かって説明しても、やっぱり「理解しない」人にとっては不透明だろう。精神の様相が変わらないかぎり、不透明さは透明にはならない。書物を読むことは、不透明さに分け入るという経験をすることで、そのためには通して書物を読むしか方法がない。(中略)

著者(文学者・哲学者)は言葉に先行する驚きに対して近似的な言葉を当てはめていく(I)。読者は近似的な言葉を頼りとして、言葉に先行する驚きに向かって逆のプロセスをたどっていく(II)。(中略)

「読む」という行為は、読者と著者のあいだにある言葉のブレを補正して(III)、可能なかぎり著者の使っている言葉に沿って考えを辿り(II)、そのうえでさらに著者自身が抱えていた言葉と考え(状態・世界)とのブレを補正する(I)という、二重のブレの補正の作業となる。そのための方法が「通して読む」ということであり、「行間を読む」ということにもなる。(中略)

”言葉に先行してあった考え”=驚きとは、費やされた膨大な言葉を経て、素行的に現れてくる、と考えるべきなのではないか。書いても書いても一番最初の驚きに命中しないという思いによって、一番最初の驚きが”一番最初の驚き”として膨らんでくる、とうようなものなのではないか。
―ということは、哲学書とは、(私はここで文学作品も含めてかまわないと思うのだが)、読者が「わかった」と言い切れたときにはじつは理解していることにはならず、「それでもやっぱりわからない…」と腑に落ちないものを抱き続けることが最も著者の理解のあり方にちかい理解の仕方になる……。ここで〈精神〉とは、さきほどの(II)の読むプロセスの産物だということにならないだろうか。(I)の書くプロセスとはじつにいい加減なもので、いくら”言葉に先行してあった考え”などといってみても、紋切り型だけで書いていたら、考えは簡単に言葉そのものに吸収され(紋切り型とは「言葉は近似値である」という自覚を持たない言葉のことだ)、”言葉に先行してあった考え”なんて本当にまったくどこにも存在しなくなる。書くプロセスとは読むプロセスによって保証されている、と言ってもいい。

そのとき、言葉が検索〜引用によって、本来の〈不透明性〉を失っていったらどうなるか。〈精神〉もまたなくなっていく。少なくともいままでとは別のものになるだろう。このとき、「理解する」という概念は、著者が一番最初に抱いた驚きにまで到達しようとすることではなくて、数式による証明を理解するようなものに変わっていくだろう。」(引用ここまで。)

写し終わる寸前あたりから、いま自分が少し「分かった」気になっていることとか、
今自分がしていることが引用にほかならないことに思い当たったりして、
また少し迷宮に逆戻りしたような気分がしてくる。
哲学科のくせに哲学的思考ができないのだから困ったもんだ、なのだ。

急に昨日ドラマで見たガリレオが読みたくなって近所の書店に東野圭吾を買いに走る。
チョコレートと『容疑者Xの献身』を買って家に戻る。
人間、買ってしまえばそれで満足するということがある。
良いのか悪いのかわからないけれども。

話は戻る。ここでは、保坂さんが”言葉に先行する考え”への遡行を
「読む」こととしている部分を主に引用したが、
テキスト・クリティークの批評に出会って解放された感じがし、
「精神」に遡行する読み方が鈍重に感じられた、というような話もあるし、
現代に見られるように、ただ話したいという衝動によって無意味に言葉を語ることも、
また人間の矛盾をはらんだひとつの生態であるというようなことも、
この章には書かれている。
でも、最終章が「生きる歓び」と題されていることとか、
そもそも本書が『世界を肯定する哲学』という題名であること。
言葉よりも、人間よりも、世界が先に存在した、
人間はその世界のありようを驚異をもって受け止めた、
または今現在も、そういう驚異の、歓喜の瞬間があるじゃないか、というところから
保坂さんの話がはじまっているわけで。
そこが、何冊か読んできてみて、やっぱり保坂さんというひとはきっといいひとに違いないと
信じるゆえんでもあって。
まあそういった思い込みも含めて、世界に対する素朴な驚き、歓びという、
言葉に先んじる〈精神〉を辿って読むべき文学はあるはずだと思う。
そういうリスペクトを持ってみてはじめて、読むという行為が
自分にとって創造的なプロセスとなるんだろう。






2008⁄10⁄05(Sun) 21:31   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
20081003


少し前まで、テレビは見ないことにしていたはずだったのですが、
最近その原則が崩壊してまして。
芸術劇場はほぼ毎回チェックすることにしています。
ジスモンチ、って、どこかで聞いた名前だなあ、と思ったらK先生のブログでした。

Youtubeでも見つけたので、ご参考まで。
これは長い(40分弱)ですが、良いですねえ。
Silence - Jan Garbarek,Egberto Gismonti,Charlie Haden

最もよく演奏されるというFrevo。今日放送されていたオーケストラとの演奏も
すてきでした。
Egberto Gismonti - Frevo



雑誌はめったに買いませんが、フクヘン。ブログを読んでいるせいか、
鈴木さん編集のBrutusは時々買ってます。
今回は琳派特集でした。
タブが凝ってるなあ、と思ってましたが、今日のブログに種明かしがしてありましたね。
橋本治さんが書いていた俵屋宗達の「主観的印象自体が客観である、という立ち方」というのが、
どうも何か気になってます(良い意味で)。
「宗達もその典型で、蔦ってものがもうわかってるから、わかってる以上写生は必要なくて、「オレの手の描くものが蔦だ」って言える。・・・「私の描いたものがリアリティー」なんだから。」
(橋本治の大琳派論、実況中継 より引用)






2008⁄10⁄04(Sat) 01:32   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top
分かるって


涼しくなったので、昼休みに本屋に出かけて、
池谷裕二さんの『ゆらぐ脳』を見つける。
英語レッスンの前に少し時間があったので、読み始めたらとまらなくなる。
本を片手に家庭教師に英語でさわりを話す。
しかしどうも、一番面白かったところは難しくて、すぐに英語にできない。

人間が何かを「分かった」と感じる時には主に2種類あるのではないか。
名前を知った時や物に名前をつけたとき。
その物を分解し、構成を知って、それを自分でも再組み立てできるようになったとき。

しかし、名前を知ったり、その組成を知ったこと以外には
状況は何も変わってはいないのに、何故人間はそこで「分かった」と思ってしまうのか。
それは人間のいわば錯覚ではないか。
そのような条件を充たせば「分かった」と感じるように
人間の生理として、脳の仕組みがそのようにできあがってしまっているという、
ただそれだけなのではないか。

複雑系が下火になってしまったのは、「部分」ではなく「全体」を見るべきだとの主張が
人間の生理的な「分かった」と思いたい欲求と相反するものだからではないか。

更に「分かった」と思ってしまうと、その先考えることをやめてしまう。
「分かる」という基準、尺度を変えていくことが、脳を部分で見ず全体を見ることにつながっていく
のではないか。そうするしか生命の本質はないのではないか。
そう思えるほどに、脳というのは部分を分解してみてもさっぱり分からない代物である。

数学では、トレーニングをすれば四次元がイメージできるそうだ。
脳の世界でも、トレーニングをすれば今までとは別の「分かる」が見えるように
なるのではないか。

ちなみに、実験科学、統計では相関関係は言えるが因果関係は証明できない。
あえてとんがった言い方をすれば因果律も人間の妄想、というか、
そう考えたいのが脳のクセなのである。

というようなことが書いてあった。(と思う。)
(面白かったので翻訳の練習に使ってしまったから、引用ではないけれども割に
詳細に記憶しているような気がする)

どこがどう関係あるのかといわれると困るのだけれど、
このあいだ読んだ保坂さんの『小説、世界の奏でる音楽』に共通する
快感をおぼえて、なんだか嬉しくなる。
まあ、ごくアバウトに言えば、保坂さんも、小説が「分かる」ってどういうことよ、
っていう話をしていたと思う。
理系オンチにもかかわらず複雑系に惹かれつつ、
されどいまだよく分からないわけだけれども。
部分ではなく全体、とか、「分かる」の基準を変えなきゃね、っていうキーワードが
なんか、ぐっとくるんだなあ。

脳の両義性って話も気になる。








2008⁄10⁄03(Fri) 00:59   もろもろ | Comment(0) | Trackback(0) | ↑Top

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