歩数計を買ったのは月曜である。
最近のはずいぶんと賢いらしく、USBのスティックていどの形で
ただポケットに入れておけばよい。
カロリー計算もしてくれるし、一万歩を超えると10000Step!なぞと
褒めてくれる。
職場が若干駅から遠いせいか、平日は、通勤の往復プラスどこかに
少し寄り道すれば、さしたる苦もなく一万歩をクリアできるのだが、
休日になるとそうもいかない。
なにしろ自室は1Kだから歩くといったって知れているし、
この歩数計はジーンズのポケットのような窮屈なところだと
機能しない。
上着を羽織る時(すなわち外出時)でないとカウントされないのである。
昼、最寄のコンビニに出かけて621歩稼いだものの、
万歩には程遠いなあとため息をついたのが午後4時を回ったころのこと。
それから1時間ほどうだうだした後で、
一大決心をして片道徒歩30分ほどの場所にある図書館まで
歩くことにした。
往復すれば1万歩は超えるはずだ。
行くからには何か目的物を獲得してこないと。
というわけで、現代音楽とキーワードを入れて図書館の蔵書検索に
たまたまひっかかった藤枝守「響きの生態系」を借りるという
一応のターゲットを設定したのだが、
これが予想外に収穫のある本だった。
サブタイトルがディープリスニングのために、とあって、
ディープリスニング、とは、はて、どこぞで聞いたことのある、、、
と思っていたら、
この前「店員さんのおすすめ」の言葉につられて試聴したら
気に入って買ってしまったポーリン・オリヴェロスのCDが
「Deep Listening」だったじゃないか。
後から分かったことだけれど、これはCDの名前というよりも
この2人が組んだバンド名であるらしい。
とにかく、この「響きの生態系」という本には、かのオリヴェロスに
触れた文章やインタビューが収録されていたのである。
ケージの4分33秒に代表される音楽のありようは、
「すべての音は音楽として聴きうる」というメッセージを発している。
それは常にその音を聴取する側の積極的なかかわり方、
意味を見出す行為の重要性を示唆している。
オリヴェロスのいうところの「ディープリスニング」は、
聴取する人間の側で完結するのではなく、
「耳は、自らの身体と外部の環境とをつなぐインターフェイスであり、イルカやこうもりがパルス音を放って環境の特性を察知するように、音を媒介として他者や環境とのインタラクションが行なわれる。ここで生まれる交信の綾の集積は、聴覚的なレベルを超えて共感覚的な世界へと拡がっていく」
「サウンド・アートとは、たしかに音による表現行為だが、この新しいジャンルはむしろ音を使いながらも、音の彼方にある領域にまで浸透していこうとしている。オリヴェロスが示したように、音は他者や環境をつなぐ媒体であり、さらに言えば、異なる表現形態だけでなく、また異種の生命体をもつなぐ媒体となりうるのである」(藤枝守「響きの生態系」より引用)
まだ途中までしか読んでいないのだけれども、
あの植物文様とかエオリアンハープの出発点はここにあるわけか、と
はじめて何か繋がったような気がした。
上記「響きの生態系」の巻末にはCD解説がついていて、
どれどれ、これをひととおり聞いてみたいところだなあ。
(先日の「店員さんのおすすめ」の中には、
ここに出てくるArnold Dreyblattの別のCDもあって、
じつはこれも買ったのである)
なにしろ、音律の話というのは文章で読んでも(ピタゴラス、とか微分、とかね、)
数学に弱いわたしにはさっぱりピンとこなくて、
実物を聞きたいよとずっと思っていたところだから、じつにありがたい。
良い本である。
最近のはずいぶんと賢いらしく、USBのスティックていどの形で
ただポケットに入れておけばよい。
カロリー計算もしてくれるし、一万歩を超えると10000Step!なぞと
褒めてくれる。
職場が若干駅から遠いせいか、平日は、通勤の往復プラスどこかに
少し寄り道すれば、さしたる苦もなく一万歩をクリアできるのだが、
休日になるとそうもいかない。
なにしろ自室は1Kだから歩くといったって知れているし、
この歩数計はジーンズのポケットのような窮屈なところだと
機能しない。
上着を羽織る時(すなわち外出時)でないとカウントされないのである。
昼、最寄のコンビニに出かけて621歩稼いだものの、
万歩には程遠いなあとため息をついたのが午後4時を回ったころのこと。
それから1時間ほどうだうだした後で、
一大決心をして片道徒歩30分ほどの場所にある図書館まで
歩くことにした。
往復すれば1万歩は超えるはずだ。
行くからには何か目的物を獲得してこないと。
というわけで、現代音楽とキーワードを入れて図書館の蔵書検索に
たまたまひっかかった藤枝守「響きの生態系」を借りるという
一応のターゲットを設定したのだが、
これが予想外に収穫のある本だった。
サブタイトルがディープリスニングのために、とあって、
ディープリスニング、とは、はて、どこぞで聞いたことのある、、、
と思っていたら、
この前「店員さんのおすすめ」の言葉につられて試聴したら
気に入って買ってしまったポーリン・オリヴェロスのCDが
「Deep Listening」だったじゃないか。
後から分かったことだけれど、これはCDの名前というよりも
この2人が組んだバンド名であるらしい。
とにかく、この「響きの生態系」という本には、かのオリヴェロスに
触れた文章やインタビューが収録されていたのである。
ケージの4分33秒に代表される音楽のありようは、
「すべての音は音楽として聴きうる」というメッセージを発している。
それは常にその音を聴取する側の積極的なかかわり方、
意味を見出す行為の重要性を示唆している。
オリヴェロスのいうところの「ディープリスニング」は、
聴取する人間の側で完結するのではなく、
「耳は、自らの身体と外部の環境とをつなぐインターフェイスであり、イルカやこうもりがパルス音を放って環境の特性を察知するように、音を媒介として他者や環境とのインタラクションが行なわれる。ここで生まれる交信の綾の集積は、聴覚的なレベルを超えて共感覚的な世界へと拡がっていく」
「サウンド・アートとは、たしかに音による表現行為だが、この新しいジャンルはむしろ音を使いながらも、音の彼方にある領域にまで浸透していこうとしている。オリヴェロスが示したように、音は他者や環境をつなぐ媒体であり、さらに言えば、異なる表現形態だけでなく、また異種の生命体をもつなぐ媒体となりうるのである」(藤枝守「響きの生態系」より引用)
まだ途中までしか読んでいないのだけれども、
あの植物文様とかエオリアンハープの出発点はここにあるわけか、と
はじめて何か繋がったような気がした。
上記「響きの生態系」の巻末にはCD解説がついていて、
どれどれ、これをひととおり聞いてみたいところだなあ。
(先日の「店員さんのおすすめ」の中には、
ここに出てくるArnold Dreyblattの別のCDもあって、
じつはこれも買ったのである)
なにしろ、音律の話というのは文章で読んでも(ピタゴラス、とか微分、とかね、)
数学に弱いわたしにはさっぱりピンとこなくて、
実物を聞きたいよとずっと思っていたところだから、じつにありがたい。
良い本である。
ジョン・ケージ、白井剛という名前に気を惹かれて、
津田ホールに行ってみた。
「アパートメントハウス1776/ジョン・ケージ アルディッティ弦楽四重奏団×白井 剛」。
前半はジェームズ・クラーク、ブライアン・ファーニホウという
初心者には耳なじみのない作曲家。
アルディッティ弦楽四重奏団は現代音楽を得意しているそうだけれど、
その粋はピアニッシモにある、とこの2曲を聴きながら思った。
弦楽器でこんな音も出せたのか、と唸らせる豊富な音色と、
かすかに空気を振るわせるそのひそかな音は
鳥のはばたきのようであり、あるときは蝶の舞うようでも、
また羽虫のようでもあった。
唯一名前に聞き覚えのあったのは、
少し前にトークショーで少しお話を聞いた西村朗さんだった。
いったいどんな楽譜を書けばこういう音楽になるんでしょうか、と
素人なりに想像力を駆使してみる。
ヌルシンハの物語を思い浮かべるべきところなのだろうけれど、
頭の中にはプレーンな五線譜と、はてなマークが並ぶ。
しかし決して難解で苦しい、ということでもない。
前の2曲に比べて色彩の感じられる音色。
後半、ジョン・ケージのアパートメントハウス1776。
なにげなくパンフレットを読み終えてみると最後にK先生のお名前が。
あら、こんなところで、と少し嬉しくなる。
白井剛さんは以前に野村誠さんのライブ(?)で初めてお見かけして以来、
ダンスなどというものには、とんと縁のない自分ではありながら、
どことなく気になる存在として記憶に残っていた。
(この「どことなく」を言語化しなければと長年思っているのだが、
ある程度似たような経験が堆積、または醸成されないと
言葉が発せられそうにも思えない。)
前半、微かに空気をふるわせるアルディッティ弦楽四重奏団の生み出す音が、
何かのはばたきのように感じられると思っていた、そのイメージを
白井さんは風船と紙(紙ひこうき)を使って実現してくれた。
風船が銀色であったせいもあって、室内の明かりを反映して
最初はランプか何か、光を発するものを持っているように見えた。
(わたしが近視×乱視で、おまけに最近は眼鏡の度数が合わなくなったせいもあるが)
アルディッティの編曲によるケージの「ハーモニー」は
どこかで聴いたことのあるメロディーのようでもあり、街角で耳に入る、または
部屋でぼんやりしているときに、なにげなく聞こえてきそうな音でもある。
ふうわり、ゆったりとして、時に途切れ、また繋がっていく。
風船は、ときに高くあがったり、たぐりよせられて降りてきたり、
抱きかかえられたりする。
白井さんの動きのように、宙をのぞんでいれば、そのまま身体が上昇していって、
雲の上で遊んでいるようでもある。
後半、いったん下がった四重奏団の面々が、
上着に銀色の風船をつけて再登場すると、会場から笑いがこぼれる。
それぞれに少しずつ大きさや高さの違う、銀色の風船が
ほの暗いホールに5個浮かび、たゆたっているその光景が
妙に目の奥のほうに残って、こう書いている間にも、あの旋律とともに、ふと現れる。
ふうせん、とは風の船と書く。うまく名づけたものだなあ。
津田ホールに行ってみた。
「アパートメントハウス1776/ジョン・ケージ アルディッティ弦楽四重奏団×白井 剛」。
前半はジェームズ・クラーク、ブライアン・ファーニホウという
初心者には耳なじみのない作曲家。
アルディッティ弦楽四重奏団は現代音楽を得意しているそうだけれど、
その粋はピアニッシモにある、とこの2曲を聴きながら思った。
弦楽器でこんな音も出せたのか、と唸らせる豊富な音色と、
かすかに空気を振るわせるそのひそかな音は
鳥のはばたきのようであり、あるときは蝶の舞うようでも、
また羽虫のようでもあった。
唯一名前に聞き覚えのあったのは、
少し前にトークショーで少しお話を聞いた西村朗さんだった。
いったいどんな楽譜を書けばこういう音楽になるんでしょうか、と
素人なりに想像力を駆使してみる。
ヌルシンハの物語を思い浮かべるべきところなのだろうけれど、
頭の中にはプレーンな五線譜と、はてなマークが並ぶ。
しかし決して難解で苦しい、ということでもない。
前の2曲に比べて色彩の感じられる音色。
後半、ジョン・ケージのアパートメントハウス1776。
なにげなくパンフレットを読み終えてみると最後にK先生のお名前が。
あら、こんなところで、と少し嬉しくなる。
白井剛さんは以前に野村誠さんのライブ(?)で初めてお見かけして以来、
ダンスなどというものには、とんと縁のない自分ではありながら、
どことなく気になる存在として記憶に残っていた。
(この「どことなく」を言語化しなければと長年思っているのだが、
ある程度似たような経験が堆積、または醸成されないと
言葉が発せられそうにも思えない。)
前半、微かに空気をふるわせるアルディッティ弦楽四重奏団の生み出す音が、
何かのはばたきのように感じられると思っていた、そのイメージを
白井さんは風船と紙(紙ひこうき)を使って実現してくれた。
風船が銀色であったせいもあって、室内の明かりを反映して
最初はランプか何か、光を発するものを持っているように見えた。
(わたしが近視×乱視で、おまけに最近は眼鏡の度数が合わなくなったせいもあるが)
アルディッティの編曲によるケージの「ハーモニー」は
どこかで聴いたことのあるメロディーのようでもあり、街角で耳に入る、または
部屋でぼんやりしているときに、なにげなく聞こえてきそうな音でもある。
ふうわり、ゆったりとして、時に途切れ、また繋がっていく。
風船は、ときに高くあがったり、たぐりよせられて降りてきたり、
抱きかかえられたりする。
白井さんの動きのように、宙をのぞんでいれば、そのまま身体が上昇していって、
雲の上で遊んでいるようでもある。
後半、いったん下がった四重奏団の面々が、
上着に銀色の風船をつけて再登場すると、会場から笑いがこぼれる。
それぞれに少しずつ大きさや高さの違う、銀色の風船が
ほの暗いホールに5個浮かび、たゆたっているその光景が
妙に目の奥のほうに残って、こう書いている間にも、あの旋律とともに、ふと現れる。
ふうせん、とは風の船と書く。うまく名づけたものだなあ。
サイモン・ラトルがサントリーホールで指揮棒を振っている
じつにその時、わたしは渋谷のユーロスペースで
ベルリンフィルのドキュメンタリー映画を見ていた。
まあ映画を見て今ファンになったところであって、
見終わって帰宅してから今日明日の公演と知ったわけで、
まあ仕方がないといえば仕方がないか、とも思いつつ、
やはり、嗚呼遅かりし、無念なり。
映画ではR・シュトラウスの「英雄の生涯」が上手に使われていて、
くだんのCDと、クラシックにあるまじき売れ行きという
ベルリオーズの幻想交響曲を衝動買い。
ベルリンフィルってコンサートのライブ配信始めるそうですね。
すごいなあ。
ユーロスペースでは、続きで同じくベルリンフィルに関する
ドキュメンタリー「帝国オーケストラ」も上映していて、
興味をひかれたのだが、どうも寒気がするので帰宅することにした。
★
丸谷才一の「綾とりで天の川」を読んでいる。
福澤諭吉がもしレーニンみたいにミイラにされていたらどうだろう、なんてことを
考えられるところが丸谷先生のスゴイところである。
山手線の中で読みながら、思わず吹きだしそうになったくだりをご紹介。
「彼のミイラが三田のキャンパスのどこかに展示され、塾生たちからユッチーなんて呼ばれたら、
やはり変でせう。しかし、先生は案外、喜ぶかな?
そこで宿題を二つ。
一、福澤先生のミイラと対面して折口信夫の詠んだ短歌一首を作れ。
二、福澤先生のミイラが女の塾生たちからユッチーといふ綽名で親しまれているのを聞いて、西脇順三郎の書いた詩(約十行)一篇を作れ。」
いやこれ難問だなあ。
思わず読みかけのまま迷子になっていた「死者の書」を発掘して読んでしまう。
宿題の答はな思い浮かばないけれど、
折口先生も慶應で教鞭をとっていたんですね。
全くありえない設定でもないわけだ。なるほど。
じつにその時、わたしは渋谷のユーロスペースで
ベルリンフィルのドキュメンタリー映画を見ていた。
まあ映画を見て今ファンになったところであって、
見終わって帰宅してから今日明日の公演と知ったわけで、
まあ仕方がないといえば仕方がないか、とも思いつつ、
やはり、嗚呼遅かりし、無念なり。
映画ではR・シュトラウスの「英雄の生涯」が上手に使われていて、
くだんのCDと、クラシックにあるまじき売れ行きという
ベルリオーズの幻想交響曲を衝動買い。
ベルリンフィルってコンサートのライブ配信始めるそうですね。
すごいなあ。
ユーロスペースでは、続きで同じくベルリンフィルに関する
ドキュメンタリー「帝国オーケストラ」も上映していて、
興味をひかれたのだが、どうも寒気がするので帰宅することにした。
★
丸谷才一の「綾とりで天の川」を読んでいる。
福澤諭吉がもしレーニンみたいにミイラにされていたらどうだろう、なんてことを
考えられるところが丸谷先生のスゴイところである。
山手線の中で読みながら、思わず吹きだしそうになったくだりをご紹介。
「彼のミイラが三田のキャンパスのどこかに展示され、塾生たちからユッチーなんて呼ばれたら、
やはり変でせう。しかし、先生は案外、喜ぶかな?
そこで宿題を二つ。
一、福澤先生のミイラと対面して折口信夫の詠んだ短歌一首を作れ。
二、福澤先生のミイラが女の塾生たちからユッチーといふ綽名で親しまれているのを聞いて、西脇順三郎の書いた詩(約十行)一篇を作れ。」
いやこれ難問だなあ。
思わず読みかけのまま迷子になっていた「死者の書」を発掘して読んでしまう。
宿題の答はな思い浮かばないけれど、
折口先生も慶應で教鞭をとっていたんですね。
全くありえない設定でもないわけだ。なるほど。
久々にテレビで素敵な映像を見かけた。
「天空の旅人 ニッポンの秋を飛ぶ」。
モーターのついたパラグライダーで空から日本の紅葉を撮影している。
色とりどり、質感いろいろの樹木でパッチワークされた絨毯たる大地。
多胡光純さんという探検家がナビゲータ。
★
渋谷のハンズで手帳を購入。
今回は、カバーの手触りが良いという、ただそれだけの手帳に
この何年か継続使用していた超整理手帳が負けてしまった。
よくさわるものだから、手触りは最も重要なのである。
青山ブックセンターでの対談を聞きに行く。
ある意味深すぎて内容が咀嚼できていないのだが、
ともあれ大音楽家を間近に見られて面白かった。
帰り道、HMVの5階に寄っていくつか試聴。
店員さんのおすすめと表示してあるうち4つ仕入れた。
いま聞いているのだけれど、今回は全部当たりだと思う。
arnold DREYBLATT「The adding machine」純正律にこだわっているらしい。
インタビュー。
Pauline Oliverosなど「DEEP LISTNING」
このひと面白い。
ICAD Tintinnabulate Performance w Pauline Oliveros June 2007
Pauline Oliveros Pt 1
Les Witches「Manuscrit Susanne Van Soldt」
Roland de Lassus「Cantiones Sacrae sex vocum」Philippe Herreweghe
http://jp.youtube.com/watch?v=DYEeUgynfZo&feature=related
HMVのクラシックの売り場は古楽と現代音楽が同じ列に並んでいて、
最近は主にそこだけうろうろしていることが多い。
「天空の旅人 ニッポンの秋を飛ぶ」。
モーターのついたパラグライダーで空から日本の紅葉を撮影している。
色とりどり、質感いろいろの樹木でパッチワークされた絨毯たる大地。
多胡光純さんという探検家がナビゲータ。
★
渋谷のハンズで手帳を購入。
今回は、カバーの手触りが良いという、ただそれだけの手帳に
この何年か継続使用していた超整理手帳が負けてしまった。
よくさわるものだから、手触りは最も重要なのである。
青山ブックセンターでの対談を聞きに行く。
ある意味深すぎて内容が咀嚼できていないのだが、
ともあれ大音楽家を間近に見られて面白かった。
帰り道、HMVの5階に寄っていくつか試聴。
店員さんのおすすめと表示してあるうち4つ仕入れた。
いま聞いているのだけれど、今回は全部当たりだと思う。
arnold DREYBLATT「The adding machine」純正律にこだわっているらしい。
インタビュー。
Pauline Oliverosなど「DEEP LISTNING」
このひと面白い。
ICAD Tintinnabulate Performance w Pauline Oliveros June 2007
Pauline Oliveros Pt 1
Les Witches「Manuscrit Susanne Van Soldt」
Roland de Lassus「Cantiones Sacrae sex vocum」Philippe Herreweghe
http://jp.youtube.com/watch?v=DYEeUgynfZo&feature=related
HMVのクラシックの売り場は古楽と現代音楽が同じ列に並んでいて、
最近は主にそこだけうろうろしていることが多い。
9月にはじめて、マレーシアという国に行った。
グループ企業の工場を3ヶ所回ってきたのだが、
ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
それまで数ヶ月にわたって毎日メールでやりとりしてきた相手は
「マレーシアの人」すなわちマレー人だと思っていたのだが、
実際に顔を見てみるとそれは明らかに中国人だった。
(さすがに、メールの名前で分かれよ!というつっこみを
自分で自分に入れたくなったけれど、
思い込みというのはおそろしいものである)
名前を漢字で書いてちょうだい、とメモを渡すと
ファーストネームが英語的な人以外、漢字で名前が書ける。
そして何よりも驚いたのは、
ディナーの席にいた管理職の殆どが中国系で占められており、
わずかの例外は白人またはインド系であって、
ただの一人もマレー系の人が存在しない、という事実だった。
日本という、人種という観念がなきに等しい国に30年以上も生きていると
こんなことに今更ながらショックを受けることになる。
地位に対する執着の殆どない私から見ると
中国系の彼女たちの上昇志向はすざまじくあからさまである。
そんなこんなを目にして以来、
どうも中国という国が気になっていた。
そこにもってきて、椎名さんが新作のSFで
「きっと将来、中国の同化政策は日本にも浸透しているにちがいない」
というような設定で書かれているという話を聞いて、
かちりと何か繋がったような気がした。
そんなわけで、夕方図書館に出かけて「街場の中国論」を借りた。
ときどき授業でお目にかかる、あんめるさんがブログでふれられていた
リービ英雄さんという人の新刊に中国が関連しているらしいというような話を
ふと思い出して紀行本を2冊ほど借りてみた。
リービさんの本の中に、
中国のある場所で見た光景を「日本語にならない風景」と
描写された箇所があったけれど、
たしかに英語には、ビジネスレベルでさえ日本語に訳しづらいものがある。
(文学レベルになると更に色々とあるのだろうけれど)
また、日本語から英語訳でも然りであって、そういう話はよく聞く。
おそらく中国語にも、日本語にも英語にもできない、
母語たる中国語のニュアンスとというようなものがあるのだろうと想像するけれども、
彼女たちはそんなことは微塵も感じさせない。
それは大陸的な強靭さに由来するものだろうか、と数人の顔と
ときどき電話で耳にする独特のイントネーションを思い浮かべながら、
また本に戻る。
グループ企業の工場を3ヶ所回ってきたのだが、
ちょっとしたカルチャーショックを受けた。
それまで数ヶ月にわたって毎日メールでやりとりしてきた相手は
「マレーシアの人」すなわちマレー人だと思っていたのだが、
実際に顔を見てみるとそれは明らかに中国人だった。
(さすがに、メールの名前で分かれよ!というつっこみを
自分で自分に入れたくなったけれど、
思い込みというのはおそろしいものである)
名前を漢字で書いてちょうだい、とメモを渡すと
ファーストネームが英語的な人以外、漢字で名前が書ける。
そして何よりも驚いたのは、
ディナーの席にいた管理職の殆どが中国系で占められており、
わずかの例外は白人またはインド系であって、
ただの一人もマレー系の人が存在しない、という事実だった。
日本という、人種という観念がなきに等しい国に30年以上も生きていると
こんなことに今更ながらショックを受けることになる。
地位に対する執着の殆どない私から見ると
中国系の彼女たちの上昇志向はすざまじくあからさまである。
そんなこんなを目にして以来、
どうも中国という国が気になっていた。
そこにもってきて、椎名さんが新作のSFで
「きっと将来、中国の同化政策は日本にも浸透しているにちがいない」
というような設定で書かれているという話を聞いて、
かちりと何か繋がったような気がした。
そんなわけで、夕方図書館に出かけて「街場の中国論」を借りた。
ときどき授業でお目にかかる、あんめるさんがブログでふれられていた
リービ英雄さんという人の新刊に中国が関連しているらしいというような話を
ふと思い出して紀行本を2冊ほど借りてみた。
リービさんの本の中に、
中国のある場所で見た光景を「日本語にならない風景」と
描写された箇所があったけれど、
たしかに英語には、ビジネスレベルでさえ日本語に訳しづらいものがある。
(文学レベルになると更に色々とあるのだろうけれど)
また、日本語から英語訳でも然りであって、そういう話はよく聞く。
おそらく中国語にも、日本語にも英語にもできない、
母語たる中国語のニュアンスとというようなものがあるのだろうと想像するけれども、
彼女たちはそんなことは微塵も感じさせない。
それは大陸的な強靭さに由来するものだろうか、と数人の顔と
ときどき電話で耳にする独特のイントネーションを思い浮かべながら、
また本に戻る。
同僚が出張のお土産にとふりかけを買ってきてくれた。
じゃこと干し海老と胡麻がただ混ざっているだけなのだが、
(まあふりかけなんて、だいたいそんなものだろうけれども)
これがうまいのである。
あまり美味しいので、ふりかけだけで
あらかた食べてしまって、まだご飯にかけていない。
どこだか有名なふりかけらしいようなことを言っていたのだけれど、
捨てたパッケージをゴミ収集車が持っていった頃になって、
そうだ、名前を見ておくのだった、と思い出したら、
大切なひとにもう二度と会えないときのような、
切ない気分になった。
★
なにかがむしょうに食べたくなることがあって、
そうなってしまうと、もういてもたってもいられなくなる。
(特に自室に漫然といるような時には。)
夜7時を過ぎた頃になって、
ああ、ザワークラウトが食べたいなあと思った。
正確に言うと、ザワークラウトに似せた自作のキャベツのいためものである。
ザワークラウトとの出会いは小学生に遡る。
「大どろぼうホッツェンプロッツ」という児童向けの本があって、
シリーズ3巻まで読んだかすかな記憶がある。
どんな話だったか、なんて、すっかり忘れてしまっていて、
正直言えばぐぐるまで本の題名も出てこなかったのだが、
「ザワークラウト 魔法使い」と検索すると
ちゃんと本の題名に行き当たった。
どうでもいい話だけれど、「大どろぼうホッツェンプロッツ ザワークラウト」
で検索しても、「ザワークラウト 魔法使い」で検索しても
現時点でヒットするのが同じ722件である。
さらに「ザワークラウト」だけで検索すると63000件ヒットするということは、
その中の9分の1のエントリーはこの本との関連で書いている
と推測される(のかしら、よく分からないけど。)
何が言いたいかというと、
大どろぼうホッツェンプロッツという本を読んだひとたちの中で、
ザワークラウトについて何かしらの記憶を強く持っている人間は
わたしだけではない、ということだ。
ドイツ風の、本式のザワークラウトは、有体にいえば酢漬けのキャベツで、
発酵しないと美味しくならず、従って、5日から7日置くべきであるらしい。
しかるに、即食べたい私は、とてもそんな悠長には待っていられない。
だから、本式のではなく、すぐに食せる似非ザワークラウトを考案したのである。
自分の記憶をまるごと事実と信じられるほど
正確な記憶力と頭を持っていないけれども、
くだんの書物を読んだ小学生の私は、
おそらく本に書いてあった程度のアバウトな方法で
キャベツを千切りし、酢漬けにして数日置いて食べたはずである。
結果は、残念ながら、まずかった。
今のように、ぽんとキーボードを叩けばレシピが出てくる
時代ではなかったし、
決して料理のレパートリーが多いとはいえない母は
ザワークラウトなんて言ったって
とりあってくれなかったから、自分で作ったはずである。
酢の量が多すぎたのだろう、食べられたものではなかった。
以来、つい最近まで自分で作って食べたこともなく、
売っているのを見かけたこともなく、忘れ果てていた。
何がきっかけだったのだろう、突然ザワークラウトが思い浮かんだのは。
記憶の糸とは妙なからまりかたをしているものである。
小学生の頃の失敗の教訓を生かした似非ザワークラウトの
つくりかた。
油をひかずにフライパンを熱し、ソーセージを輪切りにして炒めたところに、
レンジにかけて柔らかくしたキャベツの千切りを投入、
こころもち多めに酢を入れ、少し蒸す。塩こしょうする。
酢の加減さえ間違えなければ、当然、旨い。
すっぱい食べ物が好きなのもある。
どれぐらい旨いかというと、
キャベツ半分を1食で(当然1人で)平らげられるほど旨いのである。
ちなみに、焼きそばにも酢を入れる。
よくある蒸し焼きそばを使用して家庭で作る場合の話だけれど、
だいたい出来上がったころに水入れて蒸しますね。
あのかわりに酢と料理酒を入れるとよろしい。
そんなわけで、
夕食に焼きそばとザワークラウトを調理した自室の台所には
まろやかな酢のにおいが漂っている。
★
昨日、椎名誠さんが、トークショーの客席からの質問で、
ときめく時ってどんなときですか、
と問われて、ビールですねーと答えていたのを思い出した。
まあ、前後の文脈があるから、ここだけ引用するのは悪いかもしれないけど、
そういうのがあるといいですよ、
生きていく力になるからね、というようなことを語られていた。
わたしのザワークラウトもその種のものである。
一応そのトークショーは恋愛に関連するお題だったはずなので、
そんな話も出たのだけれど、
恋愛の本質的にすごいところは、
明日も生きていれば、その人に会えるかもしれない、
という欲望というか希望というか、そのささやかに灯ったあかりが
意外に強く生命を明日へと導く事実だと思う。
最近、最寄のコンビニのおにいさんの夜勤あけと私の出勤、
私の帰宅とおにいさんの出勤の時間がほぼ同じになったせいか、
よく顔を合わせるようになった。
恋というほど高尚なものでもないけれど、
あの人は明日もいるのかしらん、と思うだけでも、
ほんのり良い気分になり、コンビニに行くのが楽しみになったりもする。
ところで、コンビニの店員さんにひそかに思いを寄せる人というのは
意外に多いものらしく、コンビニ男って本も出たらしい。
コンビニの男性店員さんが客の女性に、とか
コンビニの女性店員さんに通いの男性が、というパターンは
ありがちだけれど、
通いの女性客が男性店員に思いを寄せるって話は
あまり見かけない。
なぜだろう。
じゃこと干し海老と胡麻がただ混ざっているだけなのだが、
(まあふりかけなんて、だいたいそんなものだろうけれども)
これがうまいのである。
あまり美味しいので、ふりかけだけで
あらかた食べてしまって、まだご飯にかけていない。
どこだか有名なふりかけらしいようなことを言っていたのだけれど、
捨てたパッケージをゴミ収集車が持っていった頃になって、
そうだ、名前を見ておくのだった、と思い出したら、
大切なひとにもう二度と会えないときのような、
切ない気分になった。
★
なにかがむしょうに食べたくなることがあって、
そうなってしまうと、もういてもたってもいられなくなる。
(特に自室に漫然といるような時には。)
夜7時を過ぎた頃になって、
ああ、ザワークラウトが食べたいなあと思った。
正確に言うと、ザワークラウトに似せた自作のキャベツのいためものである。
ザワークラウトとの出会いは小学生に遡る。
「大どろぼうホッツェンプロッツ」という児童向けの本があって、
シリーズ3巻まで読んだかすかな記憶がある。
どんな話だったか、なんて、すっかり忘れてしまっていて、
正直言えばぐぐるまで本の題名も出てこなかったのだが、
「ザワークラウト 魔法使い」と検索すると
ちゃんと本の題名に行き当たった。
どうでもいい話だけれど、「大どろぼうホッツェンプロッツ ザワークラウト」
で検索しても、「ザワークラウト 魔法使い」で検索しても
現時点でヒットするのが同じ722件である。
さらに「ザワークラウト」だけで検索すると63000件ヒットするということは、
その中の9分の1のエントリーはこの本との関連で書いている
と推測される(のかしら、よく分からないけど。)
何が言いたいかというと、
大どろぼうホッツェンプロッツという本を読んだひとたちの中で、
ザワークラウトについて何かしらの記憶を強く持っている人間は
わたしだけではない、ということだ。
ドイツ風の、本式のザワークラウトは、有体にいえば酢漬けのキャベツで、
発酵しないと美味しくならず、従って、5日から7日置くべきであるらしい。
しかるに、即食べたい私は、とてもそんな悠長には待っていられない。
だから、本式のではなく、すぐに食せる似非ザワークラウトを考案したのである。
自分の記憶をまるごと事実と信じられるほど
正確な記憶力と頭を持っていないけれども、
くだんの書物を読んだ小学生の私は、
おそらく本に書いてあった程度のアバウトな方法で
キャベツを千切りし、酢漬けにして数日置いて食べたはずである。
結果は、残念ながら、まずかった。
今のように、ぽんとキーボードを叩けばレシピが出てくる
時代ではなかったし、
決して料理のレパートリーが多いとはいえない母は
ザワークラウトなんて言ったって
とりあってくれなかったから、自分で作ったはずである。
酢の量が多すぎたのだろう、食べられたものではなかった。
以来、つい最近まで自分で作って食べたこともなく、
売っているのを見かけたこともなく、忘れ果てていた。
何がきっかけだったのだろう、突然ザワークラウトが思い浮かんだのは。
記憶の糸とは妙なからまりかたをしているものである。
小学生の頃の失敗の教訓を生かした似非ザワークラウトの
つくりかた。
油をひかずにフライパンを熱し、ソーセージを輪切りにして炒めたところに、
レンジにかけて柔らかくしたキャベツの千切りを投入、
こころもち多めに酢を入れ、少し蒸す。塩こしょうする。
酢の加減さえ間違えなければ、当然、旨い。
すっぱい食べ物が好きなのもある。
どれぐらい旨いかというと、
キャベツ半分を1食で(当然1人で)平らげられるほど旨いのである。
ちなみに、焼きそばにも酢を入れる。
よくある蒸し焼きそばを使用して家庭で作る場合の話だけれど、
だいたい出来上がったころに水入れて蒸しますね。
あのかわりに酢と料理酒を入れるとよろしい。
そんなわけで、
夕食に焼きそばとザワークラウトを調理した自室の台所には
まろやかな酢のにおいが漂っている。
★
昨日、椎名誠さんが、トークショーの客席からの質問で、
ときめく時ってどんなときですか、
と問われて、ビールですねーと答えていたのを思い出した。
まあ、前後の文脈があるから、ここだけ引用するのは悪いかもしれないけど、
そういうのがあるといいですよ、
生きていく力になるからね、というようなことを語られていた。
わたしのザワークラウトもその種のものである。
一応そのトークショーは恋愛に関連するお題だったはずなので、
そんな話も出たのだけれど、
恋愛の本質的にすごいところは、
明日も生きていれば、その人に会えるかもしれない、
という欲望というか希望というか、そのささやかに灯ったあかりが
意外に強く生命を明日へと導く事実だと思う。
最近、最寄のコンビニのおにいさんの夜勤あけと私の出勤、
私の帰宅とおにいさんの出勤の時間がほぼ同じになったせいか、
よく顔を合わせるようになった。
恋というほど高尚なものでもないけれど、
あの人は明日もいるのかしらん、と思うだけでも、
ほんのり良い気分になり、コンビニに行くのが楽しみになったりもする。
ところで、コンビニの店員さんにひそかに思いを寄せる人というのは
意外に多いものらしく、コンビニ男って本も出たらしい。
コンビニの男性店員さんが客の女性に、とか
コンビニの女性店員さんに通いの男性が、というパターンは
ありがちだけれど、
通いの女性客が男性店員に思いを寄せるって話は
あまり見かけない。
なぜだろう。
電車が駅に到着し、ドアが開いて、
夕闇の中でそこだけ明るいホームに足を踏み出した途端、
両手をぱたぱたと羽ばたかせたら
そのまま宙に浮かんで飛んでいけるような気がした。
キケンかもしれない。
イヤホンからマタイ受難曲が流れていたせいにしておこう。
HMVで立ち聞きして思わず買ってしまったブルックナーのミサ曲3番が
強烈だったせいかもしれない。
宗教音楽に独特のこの上昇する感じ。
ふわふわと。
昨日早めに眠ってしまって、
ふと目覚めたらテレビで始まったジョン・ギロックがインタビューに応じて、
メシアンの楽曲は浮世のもろもろから遠く離れさせてくれる
というようなことを語っていたけれども、
これだけ強烈な精神的上昇気流を生じさせる音楽が宗教曲に多いのだから、
やはり宗教の精神性というのはあなどれない、と思う。
ともあれ、
今日は8時過ぎに家を出て(すごい!土曜なのに)
フェルメールを見てきましたよ。
9時20分に到着した時点で20分待ちの列だったけれど、
諸々の画家をすっとばして階上のフェルメールにたどり着いてみると
少し前の牛乳を持つ女なんかとは比較にならないぐらい空いてました。
雨模様だったせいもあるのかな。
光の画家だからあたりまえといえば当り前だけど、
フェルメールの絵には「窓」があるからいいんだよね。
窓のない絵はどうもいまひとつ(笑)
リュートを調弦する女、のまなざしが好きでした。
山手線でぐるりと回って、Bunkamuraで、
コーラスライン再演についてのドキュメンタリー映画。
幼い頃からずっと舞台に立つ夢を追い求めてきたひとたちの生きかたが、
とても爽快で、久しぶりにぼろぼろ泣きました。
思わずサントラを買いそうになったけれど、ぐっとガマン。
それから地下に行って、アンドリュー・ワイエス展。
1年前ぐらいだったか、ユニマット美術館で見かけたのがきっかけで、
(何を見たのだったかしらん、画集だったっけ)
名前と、もっと作品を見たいなあ、とだけ記憶していた。
どこかに書いてあったけれど、ワイエスは秋や冬が好きで、それは
何かが「隠されている」気がするからなんだそうな。
今回は創造の過程というお題からか、完成した作品と習作が並べて展示してあるものが多い。
習作には書かれていた人物が完成品からは消えていたりするのを見ると、
やっぱり「隠された何か」が何なのか、と思いながらワイエスを見ると
なかなか面白いのでは、てな気がする。
「クリスティーナの世界」は実物を一度見たいなあ。
この絵も、クリスティーナが家に向かう背中を描きながら、
彼女が今まで歩いてきた、いわゆる「隠された」道のりを感じさせる
そんな絵であるように思われる。
そこからHMVに行ってCDを買いまして、冒頭に戻る、というわけで。
昨日不覚にも寝入ってしまって最後の5分ほどだけ聞いたのが妙に気になっていた
「世の終わりのための四重奏曲」をこれからかけてみるところ。
夕闇の中でそこだけ明るいホームに足を踏み出した途端、
両手をぱたぱたと羽ばたかせたら
そのまま宙に浮かんで飛んでいけるような気がした。
キケンかもしれない。
イヤホンからマタイ受難曲が流れていたせいにしておこう。
HMVで立ち聞きして思わず買ってしまったブルックナーのミサ曲3番が
強烈だったせいかもしれない。
宗教音楽に独特のこの上昇する感じ。
ふわふわと。
昨日早めに眠ってしまって、
ふと目覚めたらテレビで始まったジョン・ギロックがインタビューに応じて、
メシアンの楽曲は浮世のもろもろから遠く離れさせてくれる
というようなことを語っていたけれども、
これだけ強烈な精神的上昇気流を生じさせる音楽が宗教曲に多いのだから、
やはり宗教の精神性というのはあなどれない、と思う。
ともあれ、
今日は8時過ぎに家を出て(すごい!土曜なのに)
フェルメールを見てきましたよ。
9時20分に到着した時点で20分待ちの列だったけれど、
諸々の画家をすっとばして階上のフェルメールにたどり着いてみると
少し前の牛乳を持つ女なんかとは比較にならないぐらい空いてました。
雨模様だったせいもあるのかな。
光の画家だからあたりまえといえば当り前だけど、
フェルメールの絵には「窓」があるからいいんだよね。
窓のない絵はどうもいまひとつ(笑)
リュートを調弦する女、のまなざしが好きでした。
山手線でぐるりと回って、Bunkamuraで、
コーラスライン再演についてのドキュメンタリー映画。
幼い頃からずっと舞台に立つ夢を追い求めてきたひとたちの生きかたが、
とても爽快で、久しぶりにぼろぼろ泣きました。
思わずサントラを買いそうになったけれど、ぐっとガマン。
それから地下に行って、アンドリュー・ワイエス展。
1年前ぐらいだったか、ユニマット美術館で見かけたのがきっかけで、
(何を見たのだったかしらん、画集だったっけ)
名前と、もっと作品を見たいなあ、とだけ記憶していた。
どこかに書いてあったけれど、ワイエスは秋や冬が好きで、それは
何かが「隠されている」気がするからなんだそうな。
今回は創造の過程というお題からか、完成した作品と習作が並べて展示してあるものが多い。
習作には書かれていた人物が完成品からは消えていたりするのを見ると、
やっぱり「隠された何か」が何なのか、と思いながらワイエスを見ると
なかなか面白いのでは、てな気がする。
「クリスティーナの世界」は実物を一度見たいなあ。
この絵も、クリスティーナが家に向かう背中を描きながら、
彼女が今まで歩いてきた、いわゆる「隠された」道のりを感じさせる
そんな絵であるように思われる。
そこからHMVに行ってCDを買いまして、冒頭に戻る、というわけで。
昨日不覚にも寝入ってしまって最後の5分ほどだけ聞いたのが妙に気になっていた
「世の終わりのための四重奏曲」をこれからかけてみるところ。
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