始めてしまえば何とかなる、ということもある。
昨日のぐうたらを取り返すべく、
午後から中野の本屋経由で図書館へ。
ファンのつとめとして
「それでも脳はたくらむ」「科学のクオリア」購入。
図書館は混雑していて座る場所もない。
ホールのベンチに座って読んでいると、
ロビーを全力疾走していた子供が転んで泣き出し
これまた落ち着かない。
雑誌コーナーをうろついて「現代思想」を手に取ったら
「なぜ余計なことを考えるのか」
という冗談みたいなタイトルが目に入る。
「いま私はビルの二階の喫茶店にいて、水族館の水槽のような一枚ガラスの窓から外を見渡し、「なぜ余計なことを考えるのか」という問題について考えている。「なぜ余計なことを考えるのか」は微動だにせず、しかし同時に私は「隣のビルの先端はクマの耳に似ている」とか、「窓際にある観葉植物の葉は厚ぼったい」などと考えている。まさに何か考えながら、余計なことを考えている。しかし…」と続く。面白い。
数学の雑誌と一緒にコピーをとってから図書館を出て、
近くの喫茶店に入る。
昨日をもってアルコールは飲み納めで、
コーヒーも断つことにしたので、
仕方なく抹茶ミルク。
喫茶店に入ってコーヒーが飲めないなんて
死んじまったほうがましだろうと思わなくもないが、
まあ仕方がない。
さっきの続きを読んでみる。
量子論と絡んでいるせいで少し、いや、けっこう難しいが、
結論だけはよく分かる(笑)
とにかく、こういうことだ。
「何かを考えているとき、泡のように出現する余計なことは、考えていることとの同時性において、すでに全体との調停を志向する個物である。それは量子もつれの構造の萌芽であり、あなたの認識世界を変える種子がうまれつつある現場だ。余計なことがとまらないとき、あなたはしめたと思うべきなのだ。」
(なぜ余計なことを考えるのか 郡司ペギオ幸夫+塩谷賢)
確かにこれは別の意味でも、しめたと思うべきだろう。
つい本題から外れて「余計なこと」を考えてしまう私みたいな人間のための良い理論武装が見つかった。
★
6時を過ぎると図書館も空いて来るので
喫茶店を出て図書館に戻る。
野口悠紀夫さんの「超」文章法、超整理法(3)、
斉藤孝さんの「使える読書」を立読み。
斉藤さんはゲーテなどを使って文章を書くわけだけれど、
それに関してこんなことが書いてあった。
「本当に「使える」には、対象に対して強い立場に立たないとだめなんです。びびっていると使えるようにならない。」
「「気持ちでは負けてないよ」という地点から読み始めること」
ただし、思い込みには注意。
思い込んでしまうと、「自分の限界が読書の限界」になる。
読書とは自分の限界を突破することなのだから、思い込んでは読書の甲斐がない。
読んでいる時はまず、自分の思いを捨てて「相手に憑依すること」。
相手に沿って、本に傍線も引きまくって、最後にセレクトする時になって、急に自分の立場が強くなる、下剋上みたいな感じ、、。
というあたり、納得した。
帰宅すると丁度N響アワーの時間で、
引用の美学と題した特集だった。
パロディ満載のサン・サーンス「動物の謝肉祭」、
グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が巧みに引用された
ベルリオーズの幻想交響曲14。
確かに、引用する対象に「気持ちでは負けない」強さがあってはじめて
パロディともなり、名曲ともなる。
憑依した後の下剋上。
創造とは戦いなのだ。
そろそろ眠い。
前にドラマが印象深かった
「モリー先生との火曜日」を原文で読んでいる。
昨日のぐうたらを取り返すべく、
午後から中野の本屋経由で図書館へ。
ファンのつとめとして
「それでも脳はたくらむ」「科学のクオリア」購入。
図書館は混雑していて座る場所もない。
ホールのベンチに座って読んでいると、
ロビーを全力疾走していた子供が転んで泣き出し
これまた落ち着かない。
雑誌コーナーをうろついて「現代思想」を手に取ったら
「なぜ余計なことを考えるのか」
という冗談みたいなタイトルが目に入る。
「いま私はビルの二階の喫茶店にいて、水族館の水槽のような一枚ガラスの窓から外を見渡し、「なぜ余計なことを考えるのか」という問題について考えている。「なぜ余計なことを考えるのか」は微動だにせず、しかし同時に私は「隣のビルの先端はクマの耳に似ている」とか、「窓際にある観葉植物の葉は厚ぼったい」などと考えている。まさに何か考えながら、余計なことを考えている。しかし…」と続く。面白い。
数学の雑誌と一緒にコピーをとってから図書館を出て、
近くの喫茶店に入る。
昨日をもってアルコールは飲み納めで、
コーヒーも断つことにしたので、
仕方なく抹茶ミルク。
喫茶店に入ってコーヒーが飲めないなんて
死んじまったほうがましだろうと思わなくもないが、
まあ仕方がない。
さっきの続きを読んでみる。
量子論と絡んでいるせいで少し、いや、けっこう難しいが、
結論だけはよく分かる(笑)
とにかく、こういうことだ。
「何かを考えているとき、泡のように出現する余計なことは、考えていることとの同時性において、すでに全体との調停を志向する個物である。それは量子もつれの構造の萌芽であり、あなたの認識世界を変える種子がうまれつつある現場だ。余計なことがとまらないとき、あなたはしめたと思うべきなのだ。」
(なぜ余計なことを考えるのか 郡司ペギオ幸夫+塩谷賢)
確かにこれは別の意味でも、しめたと思うべきだろう。
つい本題から外れて「余計なこと」を考えてしまう私みたいな人間のための良い理論武装が見つかった。
★
6時を過ぎると図書館も空いて来るので
喫茶店を出て図書館に戻る。
野口悠紀夫さんの「超」文章法、超整理法(3)、
斉藤孝さんの「使える読書」を立読み。
斉藤さんはゲーテなどを使って文章を書くわけだけれど、
それに関してこんなことが書いてあった。
「本当に「使える」には、対象に対して強い立場に立たないとだめなんです。びびっていると使えるようにならない。」
「「気持ちでは負けてないよ」という地点から読み始めること」
ただし、思い込みには注意。
思い込んでしまうと、「自分の限界が読書の限界」になる。
読書とは自分の限界を突破することなのだから、思い込んでは読書の甲斐がない。
読んでいる時はまず、自分の思いを捨てて「相手に憑依すること」。
相手に沿って、本に傍線も引きまくって、最後にセレクトする時になって、急に自分の立場が強くなる、下剋上みたいな感じ、、。
というあたり、納得した。
帰宅すると丁度N響アワーの時間で、
引用の美学と題した特集だった。
パロディ満載のサン・サーンス「動物の謝肉祭」、
グレゴリオ聖歌の「怒りの日」が巧みに引用された
ベルリオーズの幻想交響曲14。
確かに、引用する対象に「気持ちでは負けない」強さがあってはじめて
パロディともなり、名曲ともなる。
憑依した後の下剋上。
創造とは戦いなのだ。
そろそろ眠い。
前にドラマが印象深かった
「モリー先生との火曜日」を原文で読んでいる。
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