図書館には珍しい(というか、自発的には絶対に探しそうにない)資料があるもので、ふらふらと視聴覚資料の書架を歩いていたら『大江健三郎の文学再入門』というビデオを見つけた。
再入門、と言われたって、入門すらしたことがないのじゃないかとも思えるが。
実家にあった世界文学全集は父が古本屋で買ったらしく、「読め!」とばかりに私の部屋の書棚に置かれていたが、例によって多くの翻訳者と「合わな」かった私は、100冊のうち数冊にしか目を通さなかった。
一人娘にいくばくかの夢を託したかったであろう父には悪いことをした。
父は大江健三郎が好きで、父の本棚には著作がズラリと並んでいた。
留守に手に取ったこともあったが良く分からなかった。
かわりに隣にあった井上ひさしは高校の頃によく読んだ。
「分かった」記憶より「分からなかった」記憶のほうが鮮明で、大江健三郎は今でも私の未解決領域に位置する。
去年東大で大江さんの講演があって、聞きに行った。
例によって内容は忘れてしまったが、何か感動したことがあってブログにも書いた。
(普段ならこう書く前に過去記事を検索するのだが、そろそろ手も疲れたのでやめておく)
講演での語り口にも親しみを持ったことはよく覚えている。
ビデオ『文学再入門』の中では、大江さん自身の作品の朗読も挿入されていて、罪と罰、暗夜行路と合わせて論じられていて面白い。
11巻あるから、今後ボチボチ借りて見てみよう。
さて、今日はハリポタを読んでいた。
映画で概要を知っているから、知らない語句の意味を類推するという作業に意外にもはまってしまったらしい。
大江さんは講義の初めにあたり、再入門の意味について2人の人のエピソードを挙げて話をされていた。一人は『涙を流す人の楡の木』(たぶんそんな題名、、)という作品に出てくる外交官の友人で、もう一人は大江さんのご子息が通われていた施設でよく会った普通のお母さん。若い時に読んで感動した本を、経験を経た今、死ぬ前にもう一度読み直したいと言われていたそうだ。講義の時点で既にお二人とも故人でいらしたらしいけれど、そのエピソードが何となく気持ちの中に残っている。
私の洋書読みプロジェクトは「パンダ読み」であって「再入門」などという高尚なものであるはずもないが、記憶の彼方を探りながら本を読むことに楽しみを覚えつつあることは確かである。
再入門、と言われたって、入門すらしたことがないのじゃないかとも思えるが。
実家にあった世界文学全集は父が古本屋で買ったらしく、「読め!」とばかりに私の部屋の書棚に置かれていたが、例によって多くの翻訳者と「合わな」かった私は、100冊のうち数冊にしか目を通さなかった。
一人娘にいくばくかの夢を託したかったであろう父には悪いことをした。
父は大江健三郎が好きで、父の本棚には著作がズラリと並んでいた。
留守に手に取ったこともあったが良く分からなかった。
かわりに隣にあった井上ひさしは高校の頃によく読んだ。
「分かった」記憶より「分からなかった」記憶のほうが鮮明で、大江健三郎は今でも私の未解決領域に位置する。
去年東大で大江さんの講演があって、聞きに行った。
例によって内容は忘れてしまったが、何か感動したことがあってブログにも書いた。
(普段ならこう書く前に過去記事を検索するのだが、そろそろ手も疲れたのでやめておく)
講演での語り口にも親しみを持ったことはよく覚えている。
ビデオ『文学再入門』の中では、大江さん自身の作品の朗読も挿入されていて、罪と罰、暗夜行路と合わせて論じられていて面白い。
11巻あるから、今後ボチボチ借りて見てみよう。
さて、今日はハリポタを読んでいた。
映画で概要を知っているから、知らない語句の意味を類推するという作業に意外にもはまってしまったらしい。
大江さんは講義の初めにあたり、再入門の意味について2人の人のエピソードを挙げて話をされていた。一人は『涙を流す人の楡の木』(たぶんそんな題名、、)という作品に出てくる外交官の友人で、もう一人は大江さんのご子息が通われていた施設でよく会った普通のお母さん。若い時に読んで感動した本を、経験を経た今、死ぬ前にもう一度読み直したいと言われていたそうだ。講義の時点で既にお二人とも故人でいらしたらしいけれど、そのエピソードが何となく気持ちの中に残っている。
私の洋書読みプロジェクトは「パンダ読み」であって「再入門」などという高尚なものであるはずもないが、記憶の彼方を探りながら本を読むことに楽しみを覚えつつあることは確かである。
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