テレビをつけっぱなしにして『わざとらしさのレトリック』(佐藤信夫著)を読んでいて我が意を得たりと手を打った。
修辞の「わざとらしさ」と「まことしやか」を対比し、前者の例として夏目漱石の日本語との微妙な距離感から生じる言葉遊びを挙げている。更には、わが中高時代の愛読書だった北杜夫についてまで言及している。(この手の論で、かつて北杜夫が取り上げられたことがあっただろうか、感無量なり)
(以下引用)
「ここであわてて《まことしやか》と《わざとらしさ》という対概念について、弁明しておかなければならない。どちらも、普通はかなり悪い意味で使われる。社会関係で、というより、平たく言えば人づきあいのなかで、悪口の色に染められている。しかしここでは、しばらくのあいだ、その悪口めいたニュアンスを消しておきたいのだ。どうしても消しきれないのなら、せめて、そうだ、《わざとらしさ》については(男らしさの《らしさ》のように)ほめる意味合い八割に対してけなす感じは二割ぐらいにおさえていただかねばならない。それから《まことしやか》のほうは、とりあえず、語感の良し悪し半々ずつということにしておこう(中略)井上ひさしの言語表現の最大の特徴は、つねにわざとらしいということである。彼はいつもまことしやかに書くことに、さからっている、あるいは恥じらっているようだ」
「このたぐいの、中身より外形…によるおかしみをはやらせ、日本語に弾性を回復させた人のひとりは井上ひさしであった(プライオリティーという勲章なら、むしろ北杜夫のものであろうか)」
(引用終わり)
《わざとらしさ》という言葉の良いイメージにおいて思い浮かぶのは、アリとキリギリスの石井さんである。
それは、本を読みながら聞こえていたテレビのトーク番組にたまたま石井さんが出ていただけではないだろう、たぶん。
修辞の「わざとらしさ」と「まことしやか」を対比し、前者の例として夏目漱石の日本語との微妙な距離感から生じる言葉遊びを挙げている。更には、わが中高時代の愛読書だった北杜夫についてまで言及している。(この手の論で、かつて北杜夫が取り上げられたことがあっただろうか、感無量なり)
(以下引用)
「ここであわてて《まことしやか》と《わざとらしさ》という対概念について、弁明しておかなければならない。どちらも、普通はかなり悪い意味で使われる。社会関係で、というより、平たく言えば人づきあいのなかで、悪口の色に染められている。しかしここでは、しばらくのあいだ、その悪口めいたニュアンスを消しておきたいのだ。どうしても消しきれないのなら、せめて、そうだ、《わざとらしさ》については(男らしさの《らしさ》のように)ほめる意味合い八割に対してけなす感じは二割ぐらいにおさえていただかねばならない。それから《まことしやか》のほうは、とりあえず、語感の良し悪し半々ずつということにしておこう(中略)井上ひさしの言語表現の最大の特徴は、つねにわざとらしいということである。彼はいつもまことしやかに書くことに、さからっている、あるいは恥じらっているようだ」
「このたぐいの、中身より外形…によるおかしみをはやらせ、日本語に弾性を回復させた人のひとりは井上ひさしであった(プライオリティーという勲章なら、むしろ北杜夫のものであろうか)」
(引用終わり)
《わざとらしさ》という言葉の良いイメージにおいて思い浮かぶのは、アリとキリギリスの石井さんである。
それは、本を読みながら聞こえていたテレビのトーク番組にたまたま石井さんが出ていただけではないだろう、たぶん。
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