You are what you buy.というコピーを見たのはそんなに昔のことではなく、
渋谷か原宿か、いや馬場だったのか忘れてしまったが、とにかく山手線だった。
勿論これはYou are what you eat.のパクリなわけだし、
人間の行動に照準を合わせた言説として一理なくはないが、
はっきりと違和感をおぼえた。
でも、何が「違う」のか、うまく言葉にできなかった。
今朝、内田樹さんのブログを読んでいて、「消費文化」、つまり
自分の個性とは一連の購買における商品選択によって表現され、
その購買活動を可能にする「お金」をいかに稼ぐかが個性的な生き方の基盤となる、
という思想をそのまま打ち出しているせいだということに
遅まきながら気がついた。
それはたとえば、購買行動後の「味わい」みたいなものを
軽視する状況を現出している。
「あのCD、あの本、あの映画、どうだった?」という問いかけに対して
「良かった」「カワイイ」「面白かった」「好き」「嫌い」、
といった小児的一語で終わる反応であるとか
(これは自己反省を多分に含んでおり、、、苦笑)
「美味しい料理」を目の前にしたとき、大半の人々は「美味しい。」という以外の言葉を発することが できず、それから先は思考停止に陥ってしまうのです。…この思考停止の穴埋めのようにして引き 合いに出されるのが、実のところ「食」の生物学的機能への還元という古いパラダイムに属した「体 にいい」とか「体に悪い」といった問題設定なのです…(『美味しい料理の哲学』廣瀬純より引用)
といった現象に通じるのかもしれない。
引用元はご紹介いただいて読んだ本なのだが、フランス思想的な魅力満載の書で、
「美味しい料理は骨付き肉の構造を有しているのではないか?」という
お茶目ともいうべきテーマが真面目に論じられている。
ドガの「浴後、体を拭く女」と焼き鳥の対比写真に、まずは爆笑。
ジョフロワ・サンティレールの「すべての動物はたった一つの「Plan」の繰り返し、すなわち動物=折紙説」などというあたり非常に嘘臭くて
(失礼、調べてみたところサンティレールの説は実在するようです)
これは『鼻行類』にも似た何か仕掛けのある書物なのじゃないかと
一瞬疑ってしまったのだが、どうやらそうではない。
時間、多様性の問題、その他哲学、芸術、生物学的考察と料理とが混然となって
クスクス笑いながら新たな視野が開けるのが快感である。
予想外の効用は、セザンヌの「サントヴィクトワール山」がクレーム・ブリュレに見えてしまったり、
その他食べものを見たときに、「この料理の骨にあたるのはコレ、肉はアレかしらん、」なぞと
ふと考えてしまうことである。
そこに、「美味しかった」、だけではない消費文化への反逆ともいうべき何かが始まっている。
また、若干無理があったとしても、とりあえず仮説を立て、それを立証していくというプロセスを
頭に馴染ませるのにも役立つ。一読では読み切れておらず、現在再読中。
ご紹介に感謝、であります。
しめくくりは小林秀雄。
聞いていた音楽の後に録音されていたせいで、たまたまかかってしまった『文学の雑感』。
「科学とは、本当にモノを知ること、生活経験を認識すること、生きている意味あいを知ることよりも
むしろ、法則、規則を見分けるもの。科学はいかに能率的に行動するかであり、その法則を
見出すのは重要なことである。ただ、科学は原因を追究することであり、モノとモノとの関係性を知ることであるけれども、このモノそのものを知る、自己を認識することではない。
認識は生活を便利にはしない。生活を複雑にする。でも生活し甲斐のあるものにする。認識とは非常に面倒なものではあるが、そこに人生がある。…
豊かに自分を知れば、何かがはじまるようになるでしょうね。…」
(小林秀雄『文学の雑感』科学する心 CDより概要を引用)
科学と自己認識にひかれた補助線たる「クオリア」の概念は
私の学問的興味の基盤になっているものではあるが、
それが単なる原因追究、関係性の発見のみに終わらないためにも、
多分野への目配りは継続したままで、自己の分析、考察力を磨いていきたい。
本日のBGM
ペレアスとメリザンド(シェーンベルク、シベリウス、フォーレ)
'impermanence' Meredith Monk
渋谷か原宿か、いや馬場だったのか忘れてしまったが、とにかく山手線だった。
勿論これはYou are what you eat.のパクリなわけだし、
人間の行動に照準を合わせた言説として一理なくはないが、
はっきりと違和感をおぼえた。
でも、何が「違う」のか、うまく言葉にできなかった。
今朝、内田樹さんのブログを読んでいて、「消費文化」、つまり
自分の個性とは一連の購買における商品選択によって表現され、
その購買活動を可能にする「お金」をいかに稼ぐかが個性的な生き方の基盤となる、
という思想をそのまま打ち出しているせいだということに
遅まきながら気がついた。
それはたとえば、購買行動後の「味わい」みたいなものを
軽視する状況を現出している。
「あのCD、あの本、あの映画、どうだった?」という問いかけに対して
「良かった」「カワイイ」「面白かった」「好き」「嫌い」、
といった小児的一語で終わる反応であるとか
(これは自己反省を多分に含んでおり、、、苦笑)
「美味しい料理」を目の前にしたとき、大半の人々は「美味しい。」という以外の言葉を発することが できず、それから先は思考停止に陥ってしまうのです。…この思考停止の穴埋めのようにして引き 合いに出されるのが、実のところ「食」の生物学的機能への還元という古いパラダイムに属した「体 にいい」とか「体に悪い」といった問題設定なのです…(『美味しい料理の哲学』廣瀬純より引用)
といった現象に通じるのかもしれない。
引用元はご紹介いただいて読んだ本なのだが、フランス思想的な魅力満載の書で、
「美味しい料理は骨付き肉の構造を有しているのではないか?」という
お茶目ともいうべきテーマが真面目に論じられている。
ドガの「浴後、体を拭く女」と焼き鳥の対比写真に、まずは爆笑。
ジョフロワ・サンティレールの「すべての動物はたった一つの「Plan」の繰り返し、すなわち動物=折紙説」などというあたり非常に嘘臭くて
(失礼、調べてみたところサンティレールの説は実在するようです)
これは『鼻行類』にも似た何か仕掛けのある書物なのじゃないかと
一瞬疑ってしまったのだが、どうやらそうではない。
時間、多様性の問題、その他哲学、芸術、生物学的考察と料理とが混然となって
クスクス笑いながら新たな視野が開けるのが快感である。
予想外の効用は、セザンヌの「サントヴィクトワール山」がクレーム・ブリュレに見えてしまったり、
その他食べものを見たときに、「この料理の骨にあたるのはコレ、肉はアレかしらん、」なぞと
ふと考えてしまうことである。
そこに、「美味しかった」、だけではない消費文化への反逆ともいうべき何かが始まっている。
また、若干無理があったとしても、とりあえず仮説を立て、それを立証していくというプロセスを
頭に馴染ませるのにも役立つ。一読では読み切れておらず、現在再読中。
ご紹介に感謝、であります。
しめくくりは小林秀雄。
聞いていた音楽の後に録音されていたせいで、たまたまかかってしまった『文学の雑感』。
「科学とは、本当にモノを知ること、生活経験を認識すること、生きている意味あいを知ることよりも
むしろ、法則、規則を見分けるもの。科学はいかに能率的に行動するかであり、その法則を
見出すのは重要なことである。ただ、科学は原因を追究することであり、モノとモノとの関係性を知ることであるけれども、このモノそのものを知る、自己を認識することではない。
認識は生活を便利にはしない。生活を複雑にする。でも生活し甲斐のあるものにする。認識とは非常に面倒なものではあるが、そこに人生がある。…
豊かに自分を知れば、何かがはじまるようになるでしょうね。…」
(小林秀雄『文学の雑感』科学する心 CDより概要を引用)
科学と自己認識にひかれた補助線たる「クオリア」の概念は
私の学問的興味の基盤になっているものではあるが、
それが単なる原因追究、関係性の発見のみに終わらないためにも、
多分野への目配りは継続したままで、自己の分析、考察力を磨いていきたい。
本日のBGM
ペレアスとメリザンド(シェーンベルク、シベリウス、フォーレ)
'impermanence' Meredith Monk
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