最近、ある説を思い浮かぶと、横から「それってホントにそうなの?」
という声が聞こえてきて、更に文章が形を成していくうちに
当初の思いつきから離れたところでフィニッシュしているのに気がついた。
いや、前からそう思っていたけれど、
内田樹先生ブログによって言語化されて、そうそう、それそれ、と手を打ったのだった。
で、今日の「X氏の生活と意見」のエントリーを見て、
オオ、是非トモ『タカハシさんの生活と意見』ヲ読マナケレバ!!!
と思ったのだけれども、どうやら絶版なのか入手できそうになく、
仕方ないからネットで図書館の貸出予約をして、ワセダに向かった。
電車の中でドヴォルザークを聞きながら、読みかけのドーキンスを思い出し、
宗教が政治、戦争に使われる思想統制に一役買った過去があるという前提で、
無宗教を標榜する人間の多い現代のニッポンという国家は、
(いや、ほんとに無宗教なんだろうか、
ドーキンスは神に仏は含んでいなくて、それは仏教が人生哲学に類するもので宗教ではないと
考えているふしもあるのだが、最近は仏教にもイロイロある。
それに宗教と名がつかなくても、
たとえば卓越したアーティストなどに対する偶像崇拝的なものを
宗教に含めなくてよいのだろうか、
含んだ場合、そういう強烈な、もしかすると有事勃発の際に利用されそうな「信仰」を
持っていない人間なんているのだろうか、)
とにかく、あってはいけないけれども、
万一国が必要を感じてしまったとしたら、どんな方法をもって
彼らはそれを実行しようとするのだろうか。
というようなことを考えるともなく考えていた。
同じく読みかけの坪内祐三『靖国』には、こんな気になる文章もある。
明治3年に第一回が始まった招魂祭についてである。
「ここで記念されている出来事は、皆、当時にあっては、つい昨日の(オンリーイエスタデイ)出来事である。近代的(モダン)な出来事である。それが毎年四回、巡る四季と共に、記念され続けて行くことによって、一つの歴史性を帯びて行く。そしていつの間にか、その起源があいまいになり、神話的世界と結び付く。伝統的と思われている物の多くが、実は近代になって新たに人工的に創りだされたものであると語ったのはイギリスの歴史家エリック・ホブズボウム(『創られた伝統』紀伊国屋書店1992年)であるが、ホブズボウムはまた、こうも言っている。「伝統の創出と見なされているものは、単に反復を課すことによってということかもしれないが、過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のことである」。先の引用文中に見られる一見伝統的とも思われる式次第も、実はそのころ「創出」された代物なのである」(坪内祐三『靖国』より引用)
これについては個人的に思い当たる経験がある。
しばらく要ブックマーク、というトピック。
というところで、小沼先生の授業は、ますますドラえもん化していて、
(のび太(わたしのことですね)に、その時必要なものが与えられるという意味ですが、、)
サウンドがいかに戦争を喚起するかというお題でありました。
15−16世紀には既にそういう音楽が存在していたわけで、
また作曲家の戦争に対する意識によって曲調は非常に変わるにしろ、
ベートーヴェン、チャイコフスキーしかり。
地獄の黙示録の戦闘シーンに流れるワグナーを聞きながら、
音楽よ、おまえもか、
というか、
人の心の奥深くに入り込む可能性のあるものは、
すべて諸刃の剣なのだ、ということに
今更ながら、いたくも気付いてしまったのでありました。
お話が終わった瞬間、内田先生ブログの文章がまた思い浮かんで、
「書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。…
真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。…」
そういう感じのお話だったなあと思ったのでしたが。
で、話を戻すと、
宗教という、ごく分かりやすいもので思想統制される可能性を持たない人間としては、
それ以外のところから忍び寄る魔の手(?)に対する敏感さは
持っておかないといけないわけですよね。
まああたりまえだけれども、企業だけじゃなく、
文化においても社会的責任投資が求められるわけだよなあ。
でもさ、ワグナーは嫌いじゃないですしね。
本当に好きになっちゃったら、音楽聞いてる間は、その人の思想がどうとかなんて
はるか彼方に飛んでってることが多いしね。
いま聞いてるサン・サーンスがどんな思想を持った人だったかなんて知らないけど、
やっぱり交響曲3番は良いのだしね。
まあ今生き残ってる古典は割合その点スクリーニングされてて
安心して没入できるのかな。うーん。
まあ、とにかく、没入した後、自分が正しいと思っている立ち居地に戻れる、というか
我にかえってくることができる、ってことが重要なのかな。
しかし予防線張ってるだけの人生もつまらないしね。
相変わらず収集がつきませんが。
もうねましょ。
という声が聞こえてきて、更に文章が形を成していくうちに
当初の思いつきから離れたところでフィニッシュしているのに気がついた。
いや、前からそう思っていたけれど、
内田樹先生ブログによって言語化されて、そうそう、それそれ、と手を打ったのだった。
で、今日の「X氏の生活と意見」のエントリーを見て、
オオ、是非トモ『タカハシさんの生活と意見』ヲ読マナケレバ!!!
と思ったのだけれども、どうやら絶版なのか入手できそうになく、
仕方ないからネットで図書館の貸出予約をして、ワセダに向かった。
電車の中でドヴォルザークを聞きながら、読みかけのドーキンスを思い出し、
宗教が政治、戦争に使われる思想統制に一役買った過去があるという前提で、
無宗教を標榜する人間の多い現代のニッポンという国家は、
(いや、ほんとに無宗教なんだろうか、
ドーキンスは神に仏は含んでいなくて、それは仏教が人生哲学に類するもので宗教ではないと
考えているふしもあるのだが、最近は仏教にもイロイロある。
それに宗教と名がつかなくても、
たとえば卓越したアーティストなどに対する偶像崇拝的なものを
宗教に含めなくてよいのだろうか、
含んだ場合、そういう強烈な、もしかすると有事勃発の際に利用されそうな「信仰」を
持っていない人間なんているのだろうか、)
とにかく、あってはいけないけれども、
万一国が必要を感じてしまったとしたら、どんな方法をもって
彼らはそれを実行しようとするのだろうか。
というようなことを考えるともなく考えていた。
同じく読みかけの坪内祐三『靖国』には、こんな気になる文章もある。
明治3年に第一回が始まった招魂祭についてである。
「ここで記念されている出来事は、皆、当時にあっては、つい昨日の(オンリーイエスタデイ)出来事である。近代的(モダン)な出来事である。それが毎年四回、巡る四季と共に、記念され続けて行くことによって、一つの歴史性を帯びて行く。そしていつの間にか、その起源があいまいになり、神話的世界と結び付く。伝統的と思われている物の多くが、実は近代になって新たに人工的に創りだされたものであると語ったのはイギリスの歴史家エリック・ホブズボウム(『創られた伝統』紀伊国屋書店1992年)であるが、ホブズボウムはまた、こうも言っている。「伝統の創出と見なされているものは、単に反復を課すことによってということかもしれないが、過去を参照することによって特徴づけられる形式化と儀礼化の過程のことである」。先の引用文中に見られる一見伝統的とも思われる式次第も、実はそのころ「創出」された代物なのである」(坪内祐三『靖国』より引用)
これについては個人的に思い当たる経験がある。
しばらく要ブックマーク、というトピック。
というところで、小沼先生の授業は、ますますドラえもん化していて、
(のび太(わたしのことですね)に、その時必要なものが与えられるという意味ですが、、)
サウンドがいかに戦争を喚起するかというお題でありました。
15−16世紀には既にそういう音楽が存在していたわけで、
また作曲家の戦争に対する意識によって曲調は非常に変わるにしろ、
ベートーヴェン、チャイコフスキーしかり。
地獄の黙示録の戦闘シーンに流れるワグナーを聞きながら、
音楽よ、おまえもか、
というか、
人の心の奥深くに入り込む可能性のあるものは、
すべて諸刃の剣なのだ、ということに
今更ながら、いたくも気付いてしまったのでありました。
お話が終わった瞬間、内田先生ブログの文章がまた思い浮かんで、
「書き手から読者への「コールサイン」はつねに「ダブル・ミーニング」として発信される。…
真にすぐれた作家はすべての読者に「この本の真の意味がわかっているのは世界で私だけだ」という幸福な全能感を贈ってくれる。…」
そういう感じのお話だったなあと思ったのでしたが。
で、話を戻すと、
宗教という、ごく分かりやすいもので思想統制される可能性を持たない人間としては、
それ以外のところから忍び寄る魔の手(?)に対する敏感さは
持っておかないといけないわけですよね。
まああたりまえだけれども、企業だけじゃなく、
文化においても社会的責任投資が求められるわけだよなあ。
でもさ、ワグナーは嫌いじゃないですしね。
本当に好きになっちゃったら、音楽聞いてる間は、その人の思想がどうとかなんて
はるか彼方に飛んでってることが多いしね。
いま聞いてるサン・サーンスがどんな思想を持った人だったかなんて知らないけど、
やっぱり交響曲3番は良いのだしね。
まあ今生き残ってる古典は割合その点スクリーニングされてて
安心して没入できるのかな。うーん。
まあ、とにかく、没入した後、自分が正しいと思っている立ち居地に戻れる、というか
我にかえってくることができる、ってことが重要なのかな。
しかし予防線張ってるだけの人生もつまらないしね。
相変わらず収集がつきませんが。
もうねましょ。
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