ここのところいつに増して道に迷った気分だったのが、少し先に灯りがともったような気がしたら嬉しくなって、つらつらと写しているうちにずいぶん長くなった。
保坂和志『世界を肯定する哲学』11章〈精神〉が書物の産物だとしたら、インターネットの中で〈精神〉は……より引用。
「問う」ということは、A氏からB氏に向かってなされる行動ではなくて、自分の中で辛抱強くつづける精神のあり方のことである。「問う」ということは、地図の上を目的地に向かって進むことではなくて、自分で地図を作りながら進むことであり、地図を作るという行為そのもののことである。しかも、その地図を読めるのは地図を作ったその人間だけである。……(中略)
しかし「理解する」というのは、本来が「分からない人にはわからない」という性質のもので、近接する知識が事前に何もなかったら理解することはできない。「理解する」とは、「車とはXXである」「雲とはXXである」という風に、項目を一つ一つ転写することではなくて、その概念を使う精神の状態を引き継ぐことだ。だから、「理解する」ことによって精神の様相が変わってゆく。それは「理解しない」人から見ればとても不透明なことだ。不透明さに分け入って「理解した」その人が「理解しない」人に向かって説明しても、やっぱり「理解しない」人にとっては不透明だろう。精神の様相が変わらないかぎり、不透明さは透明にはならない。書物を読むことは、不透明さに分け入るという経験をすることで、そのためには通して書物を読むしか方法がない。(中略)
著者(文学者・哲学者)は言葉に先行する驚きに対して近似的な言葉を当てはめていく(I)。読者は近似的な言葉を頼りとして、言葉に先行する驚きに向かって逆のプロセスをたどっていく(II)。(中略)
「読む」という行為は、読者と著者のあいだにある言葉のブレを補正して(III)、可能なかぎり著者の使っている言葉に沿って考えを辿り(II)、そのうえでさらに著者自身が抱えていた言葉と考え(状態・世界)とのブレを補正する(I)という、二重のブレの補正の作業となる。そのための方法が「通して読む」ということであり、「行間を読む」ということにもなる。(中略)
”言葉に先行してあった考え”=驚きとは、費やされた膨大な言葉を経て、素行的に現れてくる、と考えるべきなのではないか。書いても書いても一番最初の驚きに命中しないという思いによって、一番最初の驚きが”一番最初の驚き”として膨らんでくる、とうようなものなのではないか。
―ということは、哲学書とは、(私はここで文学作品も含めてかまわないと思うのだが)、読者が「わかった」と言い切れたときにはじつは理解していることにはならず、「それでもやっぱりわからない…」と腑に落ちないものを抱き続けることが最も著者の理解のあり方にちかい理解の仕方になる……。ここで〈精神〉とは、さきほどの(II)の読むプロセスの産物だということにならないだろうか。(I)の書くプロセスとはじつにいい加減なもので、いくら”言葉に先行してあった考え”などといってみても、紋切り型だけで書いていたら、考えは簡単に言葉そのものに吸収され(紋切り型とは「言葉は近似値である」という自覚を持たない言葉のことだ)、”言葉に先行してあった考え”なんて本当にまったくどこにも存在しなくなる。書くプロセスとは読むプロセスによって保証されている、と言ってもいい。
そのとき、言葉が検索〜引用によって、本来の〈不透明性〉を失っていったらどうなるか。〈精神〉もまたなくなっていく。少なくともいままでとは別のものになるだろう。このとき、「理解する」という概念は、著者が一番最初に抱いた驚きにまで到達しようとすることではなくて、数式による証明を理解するようなものに変わっていくだろう。」(引用ここまで。)
写し終わる寸前あたりから、いま自分が少し「分かった」気になっていることとか、
今自分がしていることが引用にほかならないことに思い当たったりして、
また少し迷宮に逆戻りしたような気分がしてくる。
哲学科のくせに哲学的思考ができないのだから困ったもんだ、なのだ。
急に昨日ドラマで見たガリレオが読みたくなって近所の書店に東野圭吾を買いに走る。
チョコレートと『容疑者Xの献身』を買って家に戻る。
人間、買ってしまえばそれで満足するということがある。
良いのか悪いのかわからないけれども。
話は戻る。ここでは、保坂さんが”言葉に先行する考え”への遡行を
「読む」こととしている部分を主に引用したが、
テキスト・クリティークの批評に出会って解放された感じがし、
「精神」に遡行する読み方が鈍重に感じられた、というような話もあるし、
現代に見られるように、ただ話したいという衝動によって無意味に言葉を語ることも、
また人間の矛盾をはらんだひとつの生態であるというようなことも、
この章には書かれている。
でも、最終章が「生きる歓び」と題されていることとか、
そもそも本書が『世界を肯定する哲学』という題名であること。
言葉よりも、人間よりも、世界が先に存在した、
人間はその世界のありようを驚異をもって受け止めた、
または今現在も、そういう驚異の、歓喜の瞬間があるじゃないか、というところから
保坂さんの話がはじまっているわけで。
そこが、何冊か読んできてみて、やっぱり保坂さんというひとはきっといいひとに違いないと
信じるゆえんでもあって。
まあそういった思い込みも含めて、世界に対する素朴な驚き、歓びという、
言葉に先んじる〈精神〉を辿って読むべき文学はあるはずだと思う。
そういうリスペクトを持ってみてはじめて、読むという行為が
自分にとって創造的なプロセスとなるんだろう。
保坂和志『世界を肯定する哲学』11章〈精神〉が書物の産物だとしたら、インターネットの中で〈精神〉は……より引用。
「問う」ということは、A氏からB氏に向かってなされる行動ではなくて、自分の中で辛抱強くつづける精神のあり方のことである。「問う」ということは、地図の上を目的地に向かって進むことではなくて、自分で地図を作りながら進むことであり、地図を作るという行為そのもののことである。しかも、その地図を読めるのは地図を作ったその人間だけである。……(中略)
しかし「理解する」というのは、本来が「分からない人にはわからない」という性質のもので、近接する知識が事前に何もなかったら理解することはできない。「理解する」とは、「車とはXXである」「雲とはXXである」という風に、項目を一つ一つ転写することではなくて、その概念を使う精神の状態を引き継ぐことだ。だから、「理解する」ことによって精神の様相が変わってゆく。それは「理解しない」人から見ればとても不透明なことだ。不透明さに分け入って「理解した」その人が「理解しない」人に向かって説明しても、やっぱり「理解しない」人にとっては不透明だろう。精神の様相が変わらないかぎり、不透明さは透明にはならない。書物を読むことは、不透明さに分け入るという経験をすることで、そのためには通して書物を読むしか方法がない。(中略)
著者(文学者・哲学者)は言葉に先行する驚きに対して近似的な言葉を当てはめていく(I)。読者は近似的な言葉を頼りとして、言葉に先行する驚きに向かって逆のプロセスをたどっていく(II)。(中略)
「読む」という行為は、読者と著者のあいだにある言葉のブレを補正して(III)、可能なかぎり著者の使っている言葉に沿って考えを辿り(II)、そのうえでさらに著者自身が抱えていた言葉と考え(状態・世界)とのブレを補正する(I)という、二重のブレの補正の作業となる。そのための方法が「通して読む」ということであり、「行間を読む」ということにもなる。(中略)
”言葉に先行してあった考え”=驚きとは、費やされた膨大な言葉を経て、素行的に現れてくる、と考えるべきなのではないか。書いても書いても一番最初の驚きに命中しないという思いによって、一番最初の驚きが”一番最初の驚き”として膨らんでくる、とうようなものなのではないか。
―ということは、哲学書とは、(私はここで文学作品も含めてかまわないと思うのだが)、読者が「わかった」と言い切れたときにはじつは理解していることにはならず、「それでもやっぱりわからない…」と腑に落ちないものを抱き続けることが最も著者の理解のあり方にちかい理解の仕方になる……。ここで〈精神〉とは、さきほどの(II)の読むプロセスの産物だということにならないだろうか。(I)の書くプロセスとはじつにいい加減なもので、いくら”言葉に先行してあった考え”などといってみても、紋切り型だけで書いていたら、考えは簡単に言葉そのものに吸収され(紋切り型とは「言葉は近似値である」という自覚を持たない言葉のことだ)、”言葉に先行してあった考え”なんて本当にまったくどこにも存在しなくなる。書くプロセスとは読むプロセスによって保証されている、と言ってもいい。
そのとき、言葉が検索〜引用によって、本来の〈不透明性〉を失っていったらどうなるか。〈精神〉もまたなくなっていく。少なくともいままでとは別のものになるだろう。このとき、「理解する」という概念は、著者が一番最初に抱いた驚きにまで到達しようとすることではなくて、数式による証明を理解するようなものに変わっていくだろう。」(引用ここまで。)
写し終わる寸前あたりから、いま自分が少し「分かった」気になっていることとか、
今自分がしていることが引用にほかならないことに思い当たったりして、
また少し迷宮に逆戻りしたような気分がしてくる。
哲学科のくせに哲学的思考ができないのだから困ったもんだ、なのだ。
急に昨日ドラマで見たガリレオが読みたくなって近所の書店に東野圭吾を買いに走る。
チョコレートと『容疑者Xの献身』を買って家に戻る。
人間、買ってしまえばそれで満足するということがある。
良いのか悪いのかわからないけれども。
話は戻る。ここでは、保坂さんが”言葉に先行する考え”への遡行を
「読む」こととしている部分を主に引用したが、
テキスト・クリティークの批評に出会って解放された感じがし、
「精神」に遡行する読み方が鈍重に感じられた、というような話もあるし、
現代に見られるように、ただ話したいという衝動によって無意味に言葉を語ることも、
また人間の矛盾をはらんだひとつの生態であるというようなことも、
この章には書かれている。
でも、最終章が「生きる歓び」と題されていることとか、
そもそも本書が『世界を肯定する哲学』という題名であること。
言葉よりも、人間よりも、世界が先に存在した、
人間はその世界のありようを驚異をもって受け止めた、
または今現在も、そういう驚異の、歓喜の瞬間があるじゃないか、というところから
保坂さんの話がはじまっているわけで。
そこが、何冊か読んできてみて、やっぱり保坂さんというひとはきっといいひとに違いないと
信じるゆえんでもあって。
まあそういった思い込みも含めて、世界に対する素朴な驚き、歓びという、
言葉に先んじる〈精神〉を辿って読むべき文学はあるはずだと思う。
そういうリスペクトを持ってみてはじめて、読むという行為が
自分にとって創造的なプロセスとなるんだろう。
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